2021年1月17日 聖書:出エジプト3章13~14節 ヨハネによる福音書4章16~26節「人の真実を求める神の真実」川本良明牧師

●昨年は新型コロナの感染から始まり、間もなく終ると期待してコロナ後のことを語る学者もいましたが、新年になると爆発的に拡大してきました。物事を「始まりから終わり」とか「誕生から死」の順序で考える私たちが、コロナ後のことを考えるのはやむを得ませんが、コロナ後のことよりも今のこの時の意味を深く見つめることが大切ではないかと思います。
●「門松や、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」という句が、年の始まりを表わす門松を、どんな人も平等に迎える墓碑としているのも、「始まりから終り」という順序を語っています。しかし聖書は真逆のことを語っています。例えばアダムの系図は「彼は~年生き、そして死んだ」とくり返していますが、その人類はノアの洪水で滅びます。そして洪水後の系図は「~年生きて、息子や娘をもうけた」とくり返して「死んだ」がありません。聖書は、ノアの子孫が今の人類であると語っているので、世界は、つまり全人類は、神の祝福のもとにあると告げているのです。
 ちなみに聖書はヘブライ語で書かれています。その最初の「初めに」の頭の文字はカタカナのコに似ています。ヘブライ語は右から左に書くので、右は過去、左は未来を表わします。だからこの文字は、過去は閉じて未来は開いていると言えます。ユダヤ人の子どもが聖書を学び始めるとき、最初にこの文字にふれて、「この文字が一番最初にあるのは、聖書が希望の書物だからです」と教えられるのです。
●聖書が、始まりから終りではなく、終りから始まりであり、誕生から死ではなく、死から誕生であると語っているのは、哲学や思想などによるのではなくて、はっきりとした根拠があるからです。それはイエス・キリストの出来事です。天地創造の神が、人間イエスとなって誕生し、30年の生涯の終わりに十字架に死んで死を滅ぼし、甦えって、まったく新しい命に生きる時代を始めました。このことは天地創造の初めから神が計画していたことであって、この計画を実現するためにユダヤ民族を興し、キリストが来る希望を与えました。彼らは、キリストを待ちつつ、神の言葉を聞きながら、たえず今の時を後にし、新しい時を前にしてきました。
 ですから聖書は、「新しい始まり」を体験した人たちで満ちあふれています。彼らは皆、特別な才能や能力があったからではなく、私たちと同じ弱さと暗さと失意と罪を背負っていました。しかし神の招きで、新しい始まりを体験したのです。先ほどお読みしたサマリアの女性もそのような人の一人です。
●ある正午、イエスが井戸のそばに座っていたとき、1人の女性が水汲みに来ました。イエスが「水を飲ませてください」と言ったことから、この女性とイエスの対話が始まります。9節以下からですが、ユダヤ人はサマリア人とつきあっていなかったので、彼女はひどく戸惑います。その彼女にイエスは言います。10節です。このイエスの言葉が彼女にどう聞こえたのか、彼女の言葉はじつに突っ慳貪です。「あんた、ヤコブより偉いんですか。」これに対してイエスは語ります。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」すると彼女は言います。「主よ、渇くことのないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 プライドをもって応対する彼女の言葉と、落ち着いて優しく語りかけるイエスの言葉には、決定的なちがいがあります。彼女は喉を潤す水を求め、イエスは魂の水を与えようとしているからです。
●イエスは鋭く、彼女の孤独と渇きを見ていました。真昼に水をくみに来ることは考えられないのに、彼女はくみに来ているのです。じつは彼女は、子どもがいなくて夫が先立つと夫の弟の妻になるというしきたりがあり、次々に5人の夫を迎えさせられました。そして一生懸命に尽くしてきたその報いは、「彼女には何か憑きものが取り憑いているのではないか」というあらぬ噂話でした。5人目の夫を天に見送ったとき、すでに彼女の心はすさんでいました。つらい生活の中で、井戸のあるここだけが、彼女の渇きを癒す場所ではなかったかと思うのです。彼女が、「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」と言ったのは、あるいは自分の悲しみと切なる願いを暗に表現したのかも知れません。
●その彼女に、イエスは間髪入れず、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言いました。自分のもっとも深い琴線に触れられた彼女の反応は、本当に早く、真剣でした。「私には夫はいません」。その彼女に、「夫はいませんとは、まさにその通りだ。あなたは、ありのままを言ったのだ」とじつに温かく語ったとき、彼女に衝撃が走りました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」
 「主よ」という言葉は、それまでも何回か言っていますが、それには何か見下した響きがありました。しかし今回は、自分が鋭く告発され、責められているような感じです。しかしたとえ責められようとも彼女はしたたかでした。彼女はイエスに、「あなたたちは、礼拝はエルサレムですべきだと言っていますが、自分たちがこの山で礼拝しているのは何も間違っていません」と主張しました。
●そういう彼女にイエスは、なおいっそう深い憐れみと親しみをこめて語ったのが次の言葉です。<婦人よ、私を信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。>
 このとき彼女は、ものすごく深く感じたと思うのです。なぜなら礼拝するお方をイエスは「お父さん」と親しく呼んでいるからです。「このお父さんを礼拝するときが来るのだ」と聞いて、「これほどに神と1つであり、これほどに神を身近にしているこの人は、いったいどういうお方なのだろうか?」と思いました。このときすでに彼女はありのままの自分をイエスにさらけ出して立っていたのですが、彼女はそのことにまだ気がついていません。それでイエスに、「私はキリストと呼ばれるメシアが来られることは、知っています。その方が来られるとき、…」と言って彼女はハッとしました。「この方は…、この方が…」と思ったそのときにイエスは言われました。<エゴー・エイミ! そう、私です!」
●この「エゴーエイミ」という言葉は大変な言葉ですが、後でふれたいと思います。先ほど、彼女は喉を潤す水を求め、イエスは魂を生き返らせる水を与えようとしたと言いましたが、イエスはあるとき言われました。<肉によって生まれた者は肉である。御霊によって生まれた者は霊である。>(ヨハネ3:6)。私たちは、本来、肉ではなく、霊として生きるように造られ、人生を与えられています。しかし、罪に支配されて、魂は死んで肉として生きています。このような私たちを罪から解放して、魂を生き返らせ、霊に生きる者とするために、イエスは、霊に生きていながらも肉の有様で生きておられました。だから旅に疲れて井戸のそばに座り、水を所望したのです。しかしイエスとの対話の中で、ついに彼女は魂が復活し、霊に生きる者となりました。喉を潤す水ではなく魂の生き返らせる水を飲んだのでした。
●魂とは、心臓が血液を集めて身体全体に巡らせるように、命の源である神と出会う場所です。接点です。天国の出張所とも言えます。問題はそれが機能しているかどうかです。しかし、<主は私を青草の原に休ませ、憩の水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる>(詩編23:2~3)とあります。神はそういうお方です。つまり教会に来て、御言葉を聞くまでは魂は機能していなかったけども、賛美歌を歌い、「神さま」と祈ってみると、神が私の魂を生き返らせ、<涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める>(詩編42:2)者に変えられます。ちょうど赤ん坊がお母さんのミルクを探すように神を慕いあえぐとき、魂はオフからオンになって生き返り、天国の出張所が開いて、<私は私の救い主である神を讃えます>と証しする者となるのです。
●魂が生き返った彼女は、水がめを置いたまま町に行きました。そして彼女はイエス・キリストを大胆に証ししました。人々に「私のことを全部知っている人に出会ったので来てみなさい」と呼びかけています。彼女は根本から変えられたのです。つまりユダヤ人とサマリア人とか、排除する人と排除される人とか、善人と悪人、できる人とできない人などの区別を超えて、人間として、ありのままに、大胆に共同体の一員として生きる者と変えられたのです。彼女の言葉を聞いた共同体の人たちは、イエスのところにやってきました。そして彼らもイエスを信じて変えられ、彼女を受け入れる者とされていきました。つまり人の真実を求める神の真実が、イエスにおいて示され、彼女も彼女を蔑み孤独に追いやっていた人々も皆、共々に真実に生きる者と変えられたのでした。
●イエスが彼女に最後に語った「エゴー・エイミ」という言葉は、イエスが自分の最も深い秘密を彼女に示した言葉です。エゴーとは「私=エゴ」です。またエイミとは「ある=生存する」です。だから「エゴー・エイミ」とは「私はある」という言葉です。そしてこの言葉は、これより千数百年も前に、神がモーセに告げた「私はある」と同じ言葉です。このヘブライ語をギリシア語に訳した七十人訳聖書ではエゴー・エイミと書いています。イエス自身も「わたしはある」と言っています。それはともかく、神からこの言葉を告げられたとき、モーセはすでに80才の老人でした。しかし神は、全人類の救いのための先駆けとして、まず奴隷であったユダヤ人をエジプトから解放する使命を与えるためにモーセに呼びかけました。ところが彼は、老人の豊かな経験を盾にして、神の呼びかけに応えようとしません。その彼に神は、「私はある」という最も深い真実の名前を示して、モーセの真実を求めました。そのやり取りが3章と4章に書かれています。そしてその結果、彼は杖一本をもってエジプトに向かっていく人間に変えられたのです。
●人の真実を求める真実な神は、不真実である私たちの名を呼んでくださるお方です。この神が、私たちの魂を生き返らせてくださることを知って、本当に感謝したいと思います。その神が、<見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする>(黙示録3:20)と語っています。これは招きの言葉です。神は私たちの心の戸を叩いています。ただし戸の把手は内側しかなく、中から開けなければ入ってこれません。戸を開ける勇気を持つことができるように、互いに執り成しながら新しい週を歩みたい思います。

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