2021年3月28日 聖書:マルコに福音書2章23~28節「箱か中身か」豊田護兄

 律法とは誰の為にそして何の為にあるのでしょうか。それは本来、人が良く生きる為に、そして正しく生きる為にあるものです。人は生きるということが大前提です。特に生きる=生活することが厳しい人達にとってはなおさらのことです。時として法は人を苦しめます。法=律法が大切か人が生きる事が大切かという課題がこの聖書の箇所にはあります。

 法とは本来中身でなければなりません。それがいつしか権力や権威と結びついて箱になってしまう場合があります。
 何年か前に硯の工房に硯を買いにいったことがあります。その時に工房の方がおもしろい話しをしてくれました。
 硯箱があります。数多くの名品があり、国宝になるものも有ります。外見も見事で素晴らしいものですが、その中身である硯は国宝にはなりません。硯を作る我々には昔の硯はとても貴重で価値ある物ですが、国宝はなりません。なぜでしょうか。外見は只の石ですからね、でも硯があるから硯箱があるのにね。・・・・  

人は見た目のイイ外観や外見にとらわれやすいものです。法はあたかも「権威」や「権力」という外見をまとっています。中身である「人が生きる」ということをしばしば忘れます。「忘れる」という字は、心を亡くすと書きます。

もう一つ映画のインディー・ジョーンズの話しです。最初は「契約の箱」の話しで始まり、最後は「聖杯」の話しでおわります。箱と杯いずれも物でしかありません。最後の台詞に、「彼女にとって聖杯は何だったのでしょう」とたずねると「ただの宝物だったんだろう」と父がこたえます。「それではお父さんにとっては」とたずねると、少し間をおいて「イルミネーション」と答えます。イメミネーションは色々と訳せますが、「輝き」「夢」「光」「希望」とも訳せます。映画の字幕はおぼえていませんがとても印象に残っている台詞です。そうです中身が大切なのです。人が生きるということが、大切なのです。

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