2021年4月25日 聖書:マタイによる福音書26章69~75節「罪と赦し」豊田護兄

 人は様々な罪を犯します。相手を傷つけたり、裏切ったり、騙したりと人には言いたくない色々な罪を抱えて生きています。そして死んでいきます。中には何も感じない人も沢山います。高野山に行くと、歴史上の悪人達の墓が山ほど在り、考えさせられます。その人達に殺された無名の人々の墓はありません。ここに墓を作ると、その罪は赦されるとでも言うのでしょうか。

 隠れ切支丹について考えてみましょう。彼らは踏み絵を踏みます。そしてその罪をずっと心の中に抱えて生きていきます。踏まなければ殉教という死がまっています。当時のイエズス会の教えでは死を選べと教えていました。いまだったらどうなのでしょうか。教会はなんというのでしょうか。50年前島原の博物館で、本物の踏まれてゆがんだ踏み絵を見た時にも同じことを考えました。

 人にとって最も大切なことは「生きる」ことです。例え神を裏切っても生きていくという道はないのでしょうか。ペテロは3度裏切っても死にはしませんでしたし、弟子たちも復活を信じませんでした。完全に裏切りと同じではありませんか。彼らも踏み絵を踏んだのと同じではないのでしょうか。

 生きるために神を裏切っても、神を信じる。この矛盾する行為の中に「神の赦し」はないのでしょうか。人は生きることを否定しては、存在しません。神の沈黙とは何でしょうか。遠藤周作さんの「沈黙」の主題もそんな所にあるような気がします。
 どんな罪でも反省しその事実をきちんと認めることができれば、その罪は赦されるのではないでしょうか。

教会のこの頃