2022年5月1日 聖書:ヨハネによる福音書21章1~8節「死とよみがえり」川本良明牧師

●「死とよみがえり」とは、イエス・キリストが十字架上で死んで3日後に甦えった出来事のことですが、単に「死と甦えり」を並べているのではなくて「死から甦えりへ」という動きを意味しています。キリストの死によって私たちの罪は裁かれ、贖われ、悪魔は滅ぼされて、私たちが父・子・聖霊の愛の交わりに加えられたことを全面的に承認したことを示すために、神はイエスを甦えらせたということです。つまり「死から甦えりへ」とは、枯れた枝が花を咲かせるように、荒れ野がいっせいに花を咲かせるように、死んだような私たちが甦えらされるということです。
●このことで聖書は、1つは体のこと、今1つは精神のことを語っています。
 まず体のことですが、神は人間を肉体と魂に区別はしても分離できない全体として創造され、死ぬのも生きるのも全体が死に全体が甦えると語っています。ルカ福音書の復活物語では、最初イエスは旅人の姿で現れます。やがてはっきりとご自分を示されると弟子たちは、亡霊だと言って怖がります。その弟子たちにイエスは、<亡霊には肉も骨もないが、私にはある。触ってよく見なさい>と言い、また<何か食べ物があるかと言って、焼いた魚を一切れ食べた>とあります。またヨハネ福音書20章では、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて鍵を全部かけていた部屋にイエスが入ってきます。そして手とわき腹を見せて、<私の手に釘の跡を見、その中にあなたの指を入れ、私の脇腹に入れ、信じなさい>と言われています。
 このようにルカ福音書もヨハネ福音書も、十字架に死んだイエスが完全な体として弟子たちに現れたと伝えています。聖書はイエスの完全な体を霊の体と呼んでいます。それは肉体のない霊魂ではなく、罪のない体という意味です。罪に支配されている体は肉と言います。だから「死から甦えりへ」とは「肉の体から霊の体へ」ということであって、私たちは、私たちの内に聖霊が住んでくださって、罪から解放されることが約束されているのです。
●次に知性や感情や意志から成る精神または魂のことですが、「死から甦えりへ」とは絶望の人生から希望の人生へと一変するということです。ルカ福音書では、復活のイエスが失意で死んでいたような2人の弟子を生き返らせています。そしてエルサレムに戻った彼らと使徒たちや他の弟子たちに、「私の名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々の宣べ伝えられる。あなたがたはその証人となる」という福音伝道の使命を与えられたとあります。この同じことをヨハネ福音書21章から見てみたいと思います。
 すでに7人の弟子たちが故郷のガリラヤに戻っていることから話は始まります。イエスに出会ってからの3年間は、じつに希望に燃えた毎日でした。火の戦車に乗って生きたまま天に昇ったエリヤのように、イエスこそイスラエルを解放するメシアであると期待していました。そのイエスが死んだとき、希望の火は消えてしまい、彼らは二度と立ち上がれないほどに空しい毎日を過ごしていました。
●「空しい」と言えば、目指す大学に入るために塾に通ったり、日夜勉強に励んで遂に合格し、大学生活が始まって間もない5月になると、いわゆる五月病で苦しむ学生がいます。原因には諸説ありますが、目標を失ったためだと思います。ただ合格を目指すだけで、何のためにその大学に行くのか目標がないままに大学に入り、また中学高校とちがって自分で受講科目を自由に選べるので、目標が見つからないといよいよ毎日が空しくなり、しだいに無気力になります。ちょうど自由な環境の海に放り出されたようになり、中には溺れて自死に至る学生もいます。事は深刻ですが、考えてみれば、生活が保障されているから起こる悩みだと思います。
●しかし7人の弟子たちにそんな悩みはありません。夢は消えてしまったのであり、何はともあれ、今は家族を養うために稼がねばなりません。漁師であったペトロが<私は漁に出る>と言うと、みんなも<一緒に行こう>と言って、イエスに出会う前の漁師生活を始めました。しかし二度と元の生活には戻れない何かがあって、何とも空しくまた苦しい毎日でした。そのことを聖書は、<その夜は何もとれなかった>と書いています。じつに象徴的だと思います。というのは、<既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた>と続けているからです。今日も魚がとれず、空しく戻ってきた彼らをじっと見ておられたイエスが、彼らに最もふさわしいときに姿を現されたのです。
●そしてイエスは彼らに、静かに、囁くように声をかけられました。<子たちよ、何か食べる物があるか>。人間食べることが第一だ、稼がねばならんのだ、五月病など贅沢だ、という私たちの現実の中で、神の国は飲食ではない、それらはすべて神が備えておられる、まず神の国と神の義を求めなさいと語られるイエスは、彼らを咎めるのでもなく指摘するのでもなく、彼ら自身が答えるようにと問われます。<子たちよ、何か食べる物があるか>。<彼らは彼に答えました。ありません!>。彼らは、自分たちの空しい気持ちを素直に表わしました。
●彼らが自分たちの弱さ愚かさをあるがままに告白したとき、イエスは、<舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ>と言われます。この「とれるはずだ」は「見つける、発見する」という意味の言葉です。イエスは、<舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば本物を見つけるはずだ>と言われたのです。彼らはその言葉に従いました。ここで思い出すのはルカ福音書5章の初めで伝えているペトロのことです。イエスが舟から陸に向かって群衆に語り終った後、傍にいた舟の持主のペトロに、<沖に出て網を降ろしなさい>と言われると、戸惑いながらもペトロは、<お言葉ですから、網を降ろしてみましょう>と答えて従っているからです。
●イエスの言葉に従うと、網を引き上げられないほど多くの魚がとれたのですが、なぜかヨハネ福音書は、わざわざ魚の数を153匹と書いています。これについて諸説ある中で、153を1+5+3=9と数えて野球の試合回数9と関連づけて説明していることに感心しました。さすがキリスト教の盛んな米国です。三位一体の神を元にした完全数が3で、3を3回繰返して9回にしたとのこと、つまり完全の中の完全という意味で、人生が完全に一変したというわけです。たしかに153匹の魚の入った網を陸に引き上げたのはペトロです。そして、まさにこのとき彼の人生は一変しました。そこで彼のことを少し見てみたいと思います。
●イエスから、<私について来なさい。人間をとる漁師にしよう>と言われた彼は、古い網を捨てて最後までイエスについていこうとしました。しかし彼はついていけませんでした。最後の食事のとき、「私は死んでもついていきます」と言うと「ペトロ、あなたは鶏が2回鳴くまでに私を3回知らないという」「そんなことありません」と言った彼が、恐怖に襲われて三回イエスを知らないと言ったとき、一目散に逃げ、泣きくずれてしまいました。彼は復活のイエスが現れたと聞いたとき、墓に走って見に行きました。しかし実際に復活のイエスが現れたときには終始沈黙しています。おそらく彼はイエスに顔を上げることができなかったのではないかと思うのです。そしてイエスに「ごめんなさい」と言おうとしてもチャンスをつかめないままにガリラヤに帰って漁師生活に戻ったのでした。
 がっくりとして顔も上げることができず、裏切ったという自責の念に陥っているペトロに最も必要なことは何だったのだろうかと思います。そしてこういうことは私たちの周りでも経験し、また自分自身も経験するようなことがあるとき、「この人に最も必要なことは何だろうか」と思わざるを得ないのではないでしょうか。
 ペトロは、<舟の右側に網を打ちなさい>と言われて網を打ち、沢山の魚が網にかかって、声の主がイエスだと知ったとき、湖に飛び込みました。待ちきれなかったのです。そのペトロに、イエスは最も必要なことを示されたのでした。
●それは食事が終ったときでした。イエスはペトロに、「シモン・ペトロ、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と言い、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。もうかなり元気になっています。するとイエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。二度目にイエスは同じことを言われ、ペトロも同じように答えました。ところが三度目に「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」と言われ、「はい、主よ、私があなたを…」と言いかけてハッとして声がつまりました。あの大祭司の庭で3回知らないと言ったことを思い出したのです。そこで彼は言うのです。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」
●イエスは決して忘れてはいない。けれどもそれを咎めるのでもなく指摘するのでもなく、<私を愛しているか>と3回語りかけることで、ペトロが恐怖心と弱さの中にあったことを認め、また3回裏切ったことを自分から告白し、さらに<私を愛するか>と静かに、慈しみ深く、囁くように語りかけることで、ペトロからイエスへの自由な愛を引き出し、イエスの父なる神を愛し、神の作品として愛されている隣人を愛する者に変えていったのです。こうしてこれまでずっと死んだようになっていたペトロは、みごとに甦えり、使徒たちの指導者となったのでした。
●聖書は、復活のイエスによって、死から甦えりへと人生を一変させられた信仰者たちの姿を伝えていますが、それは昔の話ではなく、今の私たちの話でもあります。なぜならイエスが復活したということは、時間を超えているということだからです。私たちは過去、現在、未来という時間の流れにありますが、神は天地創造の初めから終わりの時まで、私たちの時間のすべてにおいておられるお方です。だから二千年前のパレスチナでイエスは生きられ、行われた、それは確かにそうなのですが、そのイエスが復活したということは、そのイエスが時間も空間も超えて、今、ここで私たちに関わってくださっているということだからです。
●復活のキリストに出会うとき、人生が変わります。今私たちに最も必要なことはイエス・キリストです。地震、津波、コロナ、地球温暖化、ウクライナなどなどさまざまなことが起きています。しかし何が起きても変わらないのは、私たちをよき作品として造り、私たちの罪咎のために救いの道を開いたイエス・キリストです。死に勝利したキリストは、死んでおしまいではなく、三日目によみがえり、弟子たちに最も必要な出会いをして弟子たちを変えられました。私たちもまた、私たちの内にある復活のイエスである聖霊の働きにあずかりながら、この一週間を歩みたいと思います。

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