すべての国の働く人々は
世界の仲間である
かつては断絶や抑圧もあったが
このごには連帯と尊厳があるように
宮田教会の初代牧師 服部団次郎が中心となって建てた「復権の塔」
「炭鉱犠牲者 復権の塔」
炭鉱は事故の多い所です。明治以降この筑豊全体で一万人を越える殉職者が出ています。
事故率(一万人あたりの死者数)はイギリスの0.19人に対し日本は17人。なんと90倍です。安全対策に費用をかけるより、事故があってもわずかな見舞金で済ませる方が安上がりなのです。石炭1トンあたりの生産費はいくらという原価計算のなかに、労働者の命が組み込まれていたのです。また第二次大戦中は強制徴用や捕虜として連れて来られ、とりわけ危険なところで働かされた外国人も大勢亡くなっています。今でも地下には引き上げられていない遺骨が、多数埋まっています。
また炭鉱が閉山すると町には失業者があふれ、生活保護か失対労働でどうにか暮らしているという状態でした。石炭を掘る自分たちはもう必要とされない人間なんだという自己喪失感に陥り、精神を患う人が大勢いました。1975年生活保護率は1000人あたり全国平均12.1人に対し筑豊112.4人(約9倍)、精神病院ベッド数一万人あたり全国平均7、4床に対し筑豊51.4床(約7倍)という状況でした。
宮田教会牧師であった服部団次郎先生は「人間としての権利を与えられないまま死んでいき、忘れられようとしている犠牲者の権利回復を宣言する塔を建てよう。そのことによって、すべての差別を超えて一人一人がかけがえのない人間としての復権を確かめ合い、今失業者として非人間化され、自らを捨てられた者と絶望している人々の自尊心と人間性を回復して、自主性を取り戻す一助ともないたい」との思いで、「復権の塔」を建てることにしました。筑豊のすべての失対現場を回り、紙芝居を見てもらい趣旨説明して、一人一個名前を書いた石を出してもらい、それが約一万個塔の下に埋められ塔を支えています。また外国人犠牲者への謝罪を表明するため、8カ国から石板を送ってもらい、塔にはめ込んでいます。12年の歳月を経て1982年に宮若市千石に塔は建てられました。
慰霊碑でもなく記念碑でもない、人権の復権を宣言する塔。自治体や会社ではなく、炭鉱労働者たちの連帯によって建てられた塔。外国人犠牲者への謝罪を同じ労働者として表明した塔。このような塔が、この「復権の塔」以外にあるでしょうか。
かつては300もあった筑豊の炭鉱もすべて閉山し、日本経済を支えた産炭地としての筑豊は忘れ去られようとしています。さまざまな問題を抱える現代社会にあって、人間性の尊重による明るく豊かな未来が開けゆくためのささやかな指標となればと、願って止みません。
(文責 鶴尾 計介)
復権の塔から眺める千石公園の桜 (2019.3.31 撮影)
「服部団次郎先生の信仰に学ぶ」
宮田教会 鶴尾計介
服部団次郎先生は、1933年(S8年)沖縄那覇教会に赴任されました。
しかしそこで目にしたのは、物乞いをして歩く、ハンセン病患者の集団でした。
当時、沖縄本島の風習の「死者の洗骨」を終えて捨てられた棺板やトタンを使って建てられた粗末な小屋や洞窟に住み、物乞いをしながらかろうじて生き延びているという状態でした。
そこで先生は牧師を辞し、奥様の内職で細々と生計を立てながら、患者集団の多い名護町に移って、青木恵哉牧師と一緒に沖縄キリスト教会を中心に「沖縄MTL」を組織し、救済に乗り出しました。
その後、患者たちを嫌悪する住民たちによる焼き討ちに遭い、雨露をしのぐ場所さえも奪われた病者たちは、水もない小さな無人島での生活を余儀なくされるなど、多くの困難に遭いながら、先生は全国に窮状を訴えて募金活動して、療養所(現国立療養所愛楽園)を建てることができました。
戦争が激しくなって、疎開船の引率者として本土に帰られた先生は、その後、沖縄の玉砕を知ることになります。
島根県に戻られた先生は「沖縄の苦難に連帯する」という思いで宮田に来られ、炭鉱夫として坑内労働をしながら、労働者伝道を始められました。
炭坑は事故の多い所です。
貝島炭鉱も毎年2けた、時に3けたの殉職者を出しながらの操業でした。
また閉山後は失業者があふれ、精神を患う人が多く、生活保護率は全国平均の9倍、精神病院病床数は7倍という現状でした。
先生は、人間としての権利を奪われたまま死んでいき、忘れられようとしている犠牲者の、権利回復を宣言する塔を建てよう。
そのことによってすべての差別をこえて一人一人が、かけがえのない人間としての復権を確かめ合い、今、失業者として非人間化され自らを捨てられた者と絶望している人々の自尊心と人間性を回復して、その自主性を取り戻す一助ともなりたい。との思いで「復権の塔」を建てられました。
失対現場を回り、一人一個名前を書いた石を出してもらい、それが一万個塔の下に埋められ、塔を支えています。12年の歳月2500万円の事業でた。
また私立幼稚園をつくり、どこの保育園も断られた障がい者をも受け入れ、幼児教育・障がい者教育にも熱心に取り組まれました。
服部先生は「祈りの人」でした。幼稚園の奥の教室を借りて塾をしていたころ、牧師館を離れ、幼稚園の職員室で一人祈る先生の姿がありました。
思わず口から「ああ神さま、神さま」という言葉が何度も出ていました。
心から神を信頼し、神を愛していると思わされました。
また「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」(マタイ25章40節)という聖句がありますが、先生にとって、ハンセン病患者や炭鉱犠牲者・失業者や障がい者が、助けを必要としている「小さい者」であったのでしょう。
先生は言葉で救うのではなく、これらの人のところへ出かけて行き、共に歩くという横のつながりのなかで、必要なものを与えてこられました。(ヤコブの手紙2章14~17節)先生は、これらの人の中にキリストを見ていたのではないかと思わされます。
「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブの手紙1章22節)とヤコブは教えています。御言葉を行うとは、困っている人、病人、助けを必要としている人と共に歩み、必要なものを与えていくということだと思いますが、自分を振り返ってみるとき、はたしてどれだけのことができているのか、心もとない限りです。
イエスは「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。」(マタイ22章34~39節)と教えています。神はその一人子を苦難にあわせ十字架の上で死なせることによって、自分のような取るに足りない罪多い者の罪を贖い、義としてくださいました。それほどまでにしてこんな自分を愛してくださる。この神の愛を受け入れ信じるとき、おのずと神を愛する心がうまれてくるのではないでしょうか。また神様が愛してやまない隣人を愛することが、取りも直さず、神を愛することにつながるのだと思います。
神を愛し、人を愛した服部先生の信仰を通して、多くのことを学ばされます。
神様に力を与えられて、御言葉を行う人へと変えていただきたいと祈るばかりです。