2017年1月8日 聖書:箴言3章1-8節        「主に学び、人と生きる」 鈴木重宜牧師

 創出レビ民申命記、ヨシュア志士ルツサム列王、歴代エズネヘエステル記~の歌で憶えたのはいつかの教会キャンプだったか。ミッションスクールに通っていた時、聖書科の授業で、新約旧約それぞれの書簡を10個以上書きなさい、というような問題が試験で出た時は、聖書の事を知っていて得したと思った。他には「主の祈りを書け」とか。
 「創出レビ民申命記」が、モーセ五書と呼ばれるもので、ユダヤ教においても重要な書物であるということなどを知ったのは、大学で神学部にて学ぶ機会を得たため。それまでは、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教、その他の諸宗教との違いについてもほとんど知らず、ただ、キリスト教というものが、空気のように自分の周りにある、当たり前の存在で、特に重要であるとも感じず過ごしていた。しかし学び始めると、自分が知らないことがどれほどあるか、ということを知り、さらに、知らないことを知るたびに、どれほど知らないことが多いか、ということを思い知らされるばかりだった。山に登ればその先の、さらに高い山を見出し、いつまでたっても山の頂は見えずどこにあるのかすらわからない。登り続け、越えて生き続けなければ、どこに辿りつく訳でもなく、もはや戻り道もわからず、山を下る道すらよくわからない。進んでいるのか、堂々巡りなのか、逆に戻っているのか・・・。そんな時、欲しくなるのが、ナビ。せめてコンパス。地図。ヘンゼルとグレーテルが使ったみたいに、たくさんの白い石でも良いかもしれない。何かの印があればいい、道しるべでも良い。
 聖書は信仰の道における、地図であり、コンパス。道に置かれた白い石は、まさに先人の足跡を辿る歴史を読むことにほかならない。歴史の中にある導きと学びを知ることで、私たちは進むべき道を踏み外すことなく歩み続けることが出来る。だから聖書を読みましょう。
 箴言は知恵文学と言われている。「知恵を持って民の実生活を指導するのが使命である賢人による文学」だという。祭司は「律法の遵守」を、預言者は「神の言葉」を民に伝えるもの。父から子へと語る口調で記されている部分が多く、身近な存在からの教えであるような文体により、家庭教育における信仰の継承に有効に用いられていた。イエスが「父よ。」と神を呼ぶ根拠としても見ることができる。つまりはイエスご自身も箴言を愛読されていた。
 箴言は、「知識文学」ではなく「知恵文学」と呼ばれる。それは単なる知識として文学作品を読み学ぶだけではなく、信仰者としての具体的な考え方、あり方、生き方そのものの実践へと読者を導くためといえる。
 ある先輩牧師が「大事な事は紙に書きしるせ。もっと大事な事は石に刻め。いよいよ本当に大事な事は、心に刻め」と教えてくれた。主の言葉をその心に納め、心の板に書き記し、自分を知恵者とおごらずに主を憶え続け、歩む。その主の言葉ゆえに、主にある知恵のゆえに主の判断を選び取り、主に従う信仰者としてとるべき行動を誤らずに行うことが出来る。そしてその主の言葉ゆえに、平安と平和とがその生を包む。その結果、身も心も安らぎ永らえる、と箴言は伝えている。その言葉に押し出されたイエスキリストを師を仰ぎつつ、私たちはその後に続いている。
 試練や苦難、苦痛や挫折、弱さや満たされない気持ちを通して、語られる神の知恵を学び、経験する出来事。それらを通じて、自らの内にやどる神の知恵をもって、弱さのつながり、悲しみのつながりを強め、互いを励まし支え合う者として歩む時、わたしたちの体なる教会は永らえていく。主の体なる教会が、健やかに永らえていく。
 
 宮田教会の喜ばしき知恵の継承が、この新しい年も、これからも、力強く続けられていきますように。

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