2021年12月12日 聖書:マタイによる福音書 1章20~21節 「世の救い主が生まれる」川本良明牧師

●イエス・キリストの誕生物語は、マタイとルカの2つの福音書に書かれています。これは神の起こした出来事を、神が人を通して書かせたものです。人が書いたのですから、その描き方にちがいはあります。しかし共通しているのは、(1) イエス・キリストの誕生が旧約聖書に預言されていたこと、(2) そのことを天使が告げていること、(3) 聖霊の働きで処女マリアに宿って生まれたことです。
 とりわけ旧約聖書は、神が全人類の中からユダヤ民族を選び、彼らに御自分が天地を創造した全能の父なる神であることを示し、またその子孫の一人として世に来られ、世を救うという預言を記しています。そしてユダヤ民族の歴史と交差する神の歴史を記している旧約聖書を読むならば、クリスマス物語に登場している天使にしても、また聖霊によって宿り、処女マリアから人の子が誕生していることも、決して神話物語でも人の手になる架空の創作物語ではなくて、現実の出来事であり、歴史上の事実であることが分かります。
●教会は、使徒信条において、イエス・キリストの誕生を、「聖霊によって宿り、処女マリアより生まれた」と告白してきました。
◎「聖霊によって宿った」とは、マリアの妊娠が全く人間の介入なしに起こったということです。だからこそ夫ヨセフは苦しみました。しかし、造り主が被造物となり、聖なるお方が卑しい者となり、永遠なるお方が限りある時間的存在となり、霊なるお方が肉となったという、人知を越えたこの出来事は、全能の神によるものです。ですからキリストの誕生は、まさに信仰が求められる出来事なのです。私たちはこれをこのまま受け取るしかありません。
 人間イエスは、万物を創造した全能の父なる神です。ですからクリスマスは、二千年前に短い生涯を終えた愛に満ちた特別な人間の生誕を祝う祭りではありません。そうではなくて、クリスマスは、イエス・キリストの苦難の死と復活で示された神の恵みによって、罪の世を滅ぼし、全く新しい世の歴史を始められた全能の神である人間イエスの生誕を祝う祭なのです。
◎つぎに「処女マリアから生まれた」とは、歴史を Historyと呼ぶように、歴史の担い手とされ、人類の指導的責任者とされてきた男性が、無力な姿で退けられて女性が前面に出てきたということです。これがキリスト教の女性問題に対する答えであると言えます。それも傲慢な女性や自惚れた女性ではなく、<私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように>と、弱くまた謙遜な女性が選ばれています。この母のもとで、幼児期のイエスが真の人間に育っていったことをルカ福音書から読み取ることができます。天使から救い主の誕生を告げられた羊飼いたちの訪問や12才の少年イエスのエピソードについてルカ福音書は、<母マリアは、これらの出来事を全て心に納めた>と記しています。
◎また「処女マリアから生まれた」とは、キリストは霊魂だけの存在ではなく、私たちと同じ肉体的存在であるということです。
 彼は十字架にかけられたとき、下から「お前が神の子なら十字架から降りてみよ」と人を通して悪魔の誘惑を受けました。しかし彼はそれを退け、最期まで十字架から降りませんでした。それは、「お前が神の子なら石をパンにしたらどうだ」と荒れ野で受けた誘惑に、<人はパンによって生きるのではない。神の言葉によって生きるのである>と応えたのと同じことが起こっているのです。
 最期まで人間であり続けたイエス。このことは復活においても同じことが起こっています。ルカ福音書24章の復活物語のところで、復活のイエスが弟子たちに現れたとき、幽霊だと恐れている弟子たちに、<私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがあるのだ>と言われています(39節)。復活においてもイエスは、肉体的存在であることをはっきりと語っているのです。
●マリアの妊娠を知って、夫ヨセフは大変苦しみましたが、その彼に主の天使は、聖霊の働きを告げるだけでなく、その目的を告げました。それが<この子は(=生まれてくるイエスは)自分の民を罪から救う>という言葉です。つまりイエス・キリストが誕生するのは、私たちを罪から救うためだというのです。しかしそれを聞いても何かピンと来ないのは、罪についてはいろいろ思い当たることがあっても、それから救われる必要を感じないからではないでしょうか。
●しかし、私たちはこの世においてどのように生きているでしょうか。人はなぜちょっとしたことでイライラしたり、ムカムカするのでしょうか。何か出来事があると結果として不安や怒りが起こりますが、出来事とその結果があまりにも速いので、すでに慣れ親しんでいる心の中の物差しや判断があるのに気がつかないでいるのではないでしょうか。しかしよく見ると、好きか嫌いか、勝ちか負けか、損か得かなどを判断基準(=物差し)にしていることが分かります。そういう判断基準にどっぷり浸かっているので気がつかないのです。
 そして私たちはそういう基準で測り比べながら、好きな方、強い方、得な方などを選んでいます。それは悪いことではありませんが、そればかりに目を養っているので、損か得かの場合、損のときには不安が起こり、怒りが起こり、そして嫉妬心に燃えるのです。だからこの基準から解放されない限り、人は人生の本物を見る目を失って真っ暗になっています。聖書はそれを罪といいます。そして<罪は熟して死に至る>、これが聖書が語る私たちの現実です。
●だから私たちに必要なのは、人間にとって何が大切なのか、何のために生きているかを知ることです。つまり損得でも勝ち負けでもどちらであっても、真理を見る目に沿って現実を見ることです。たとえば損であっても得であっても、そういう物差しを持たないで、得のときは神に感謝し、損のときはつらいことですが、しかしこれも神の御心であると感謝して受け入れること、これが損得を超えて、神の基準によって生きることになるのではないでしょうか。
 試煉は宝である、苦しいとき、悲しいとき、つらいとき、いま私は成長するときであると受けとめることです。横並びに、人と比べることではなく、それらを超えて、上から、天から、神さまを基準にして現実を見て、たとえ人がどう言おうと、また思おうと、私は神によって生かされ、神によって示されている道を歩むのだ、それが救い主に出会って起こる解放であり、罪から解放されるということです。
 しかし、そんなことは頭では分かっているけど私には解放する力はない、自分を救う力はないと思うのではないでしょうか。だ-か-ら、イエス・キリストは、私たちを罪から救うために来られたのです。そして十字架に死んで、三日目に復活して、その救いを完成してくださったのです。
●あなたのためにキリストは、十字架に死んで、復活されたということをそのまま認め、受け取るとき、あなたの救いとなるのです。<聖霊によって身ごもり、処女マリから人として生まれた>ことを私たちは見ましたが、イエス・キリストは、天地を創造した全能なる真の神であり、同時に私たちと同じ肉体を持った真の人間です。だからこそキリストは、十字架において苦難の死を味わい、復活した今も私たちの全てのつらさ、苦しみ、痛みを知っている方として、私たちの傍らにおられるし、おられることができるのです。しかもはらわたが震えるほどの愛の方として、分け隔てなく出会い、神から裁かれる以外にない私たちの弱さ、罪、悪を、私たちに代わって、十字架で裁かれて下さいました。このことを認め、復活したイエスが、聖霊として私のもとに来て下さること、私の内に住んでくださって、私の魂を生き返らせて下さることを認めたいと思います。クリスマスとは、そういうイエス・キリストを自分のもとに迎えるということです。土の器にすぎない自分の入れ物を差し出して、「神さま、私はこういう入れ物なんです。どうぞお願いします」と祈るとき、人生の本物を器の中に入れて下さることを信じて感謝したいと思います。

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