2022年1月2日 聖書:ローマの信徒への手紙2章1~16節「感謝をもって一日をおくる」世良田静江牧師

新年あけましておめでとうございます。この一年どう生きるかは人それぞれかと思いますが、信仰的にどう生きるかはキリストと共に歩む私たちにとって大切な事でしょう。結論から言えば、一日一日、感謝をもって生きる日々を過ごしたいと思うのです。本日の箇所は神の正しい裁きという小見出しがついている箇所です。人を裁くと私たちは決して感謝の日々を送れません。私たちの周囲には気の合う人もいれば全く正反対に合わない人もいます。主によって一つとされている筈なのに合わないとなると、一般の人たちと交わるよりも大変です。同じ神を崇めイエス・キリストに導かれ、聖霊の助けにより生活している私たちがどうして一致できないのか学んでみましょう。本日の箇所はパウロがローマの教会に起こっている人々の問題がパウロに伝えられていたと想像します。少し飛躍しますが、沖縄戦最後の時のことを北谷村の牧師が証しされています。アメリカ軍の上陸に備えて沖縄の村人たちは防空壕を造り、その中に避難しました。壕の中は悪臭と飢えと恐怖で絶望の闇が深まっていく凄惨な日々であったと。牧師は二つの壕の運命を話されたのです。一つの壕は最後に自分たちの持っていた手榴弾で全滅し、死ねなかった者を殺し、残った者は自決した。一方の壕にはハワイ帰りの老人がいて「アメリカ人は決して鬼ではない。降伏して壕から出て行こう」と。この老人の言葉が多くの人を生かした。罪は決してあらわに行われません。隠れたことです。終末に至るまで隠れいることもあります。だから人は裁き合うのです。心の思いも互いに責めたり、弁解し合ったりするのです。けれどもこの終末の認識、これが福音なのです。裁くことはクリネインとギリシャ語でいいます。これがクリティシズム(批評)、更にクライシス(危機)という言葉です。汚れた白旗を掲げて壕から出ていく一人の少女を先頭に立って行く場面に希望があります。では今日の題、感謝をもって一日を生きるとは朝起きた時、今日も生きている、生かされていることを感謝から始まるスタートです。福音が裁く、それは人間が悔い改めによって生きることを求める神の招きに応答する祝福の一日なのです。

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