2022年1月9日 聖書:フィリピの信徒への手紙2章6~8節 「神の独り子イエス」 川本良明牧師

●キリスト誕生を伝えるマタイとルカ福音書に共通している1つは、旧約聖書に預言されていることです。そこでクリスマスに多くの教会では、旧約聖書の中の預言者の言葉が読まれています。ところが神はすでにユダヤ民族の始祖アブラハムに、愛するイサクとの関係においてキリストの到来を予告していました。
●75才のとき、祝福を約束する神の言葉を聞いた彼は、神に信頼して旅立ちました。その道は決して平坦ではありませんでしたが、人生の節目節目で神に導かれました。そして彼が百才、不妊の妻サラが90才にしてイサクを授かったとき、神は無から有を創造され、約束したことを必ず実現するお方だと確信し、2人の人生は頂点に達しました。ところがやがて神は、2人に物凄い試練を与えたのです。
◎創世記22章にそのことが書かれています。イサク誕生からかなりの年数が経ったある日、突然、<アブラハムよ、私が命じる山の一つに登り、イサクを焼き尽くす献げ物として献げなさい>と神から命じられました。<次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。>と聖書は淡々と書いていますが、彼は七転八倒したと思います。しかし目的地に着くと薪を並べ、その上にイサクを載せ、刃物で殺そうとしました。その時、神は、<アブラハム、アブラハム!>と呼び、殺すのを止めさせたというのです。
◎この物語を、「アブラハムは、子どもを犠牲にするほどに信仰深かった。さすがに信仰の父だ」と誤って読むことによって、どれだけ多くの子どもがつらい目に遭わされただろうかと、自戒を込めて思います。ではどのように読むべきでしょうか。
 聖書は<神はアブラハムを試された>と書いています。いったい何を試そうとされたのか。その鍵が、2節、12節、16節の3回出てくる<あなたの独り子>という言葉です。そしてこれと一致しているのが、新約聖書の<神の独り子>という言葉で、ヨハネ1章14節と18節や3章16節など8回も出てきます。
●つまりアブラハムは、愛する独り子イサクを犠牲に献げるという試練を通して、神の苦しみを見た、いや正確に言えば、神がアブラハムに神の苦しみを打ち明けたのではないかと思うのです。しかし秘密を打ち明ける場合、先に述べた「誤った読み方」のような危険が伴います。その秘密とは、父なる神と子なるキリストの愛の関係であって、アブラハムとイサクの関係がそのようなしるしであったからこそ、神は打ち明けたと思うのです。
◎イサクと父アブラハムの関係を考えると、イサクは父親が百才、母親が90才で産まれました。しかしイサクは、物心ついたころ、他の両親と比べて自分の両親が異常に年老いていることに気づいても、自分の出生の秘密を疑うことなどありませんでした。なぜなら、無から有を創造される神への全くの信頼と感謝と喜びにあふれている両親を心から敬愛するイサクは、両親がまごころ込めて讃えるその神の愛に自分が覆われていると確信していたからです。そのイサクをアブラハムは、全く一つであると思えるほどに、こよなく愛し、慈しみました。
●このように互いに自由な愛において一つである父と子の関係を考えるとき、今、試練を受けたイサクの年令は、およそ30才ほどではなかったかと思います。目的地に向かって歩きながら、彼が「私のお父さん」と呼びかけ、アブラハムが「ここにいる。私の子よ」と答えると、イサクは「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と訊きました。アブラハムはたまらない思いだったでしょう。「お前が、お前がその小羊なのだ」とは言えず、やっと言えたのは、「私の子よ、献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」でした。
 この父子の会話は、神の子イエスが子どもの時から30才になるまで、神に「天のお父さん」と親しく呼びかけ、父なる神が「わが愛する子よ」と答えてきた、父なる神と神の子イエスの自由な愛の関係を彷彿とさせます。
 ですからイサクを献げよと言われて七転八倒し、薪の上にイサクを載せて殺そうとした2人の苦しみは、あのゲツセマネでの祈りと十字架において示された父なる神と子なるイエスの苦しみのしるしだと思います。またイサクが何の抵抗もせずに、まったく父にゆだねていたのも、ゲツセマネでイエスが、「父よ、あなたの御心がなりますように」と言って十字架の道を歩んだことのしるしだと思うのです。
●父なる神と神の独り子イエスとの関係のしるしとして、父アブラハムとその独り子イサクの関係を考えると、イサクはやがて来られる大祭司イエスのしるしであることが分かります。大祭司はイスラエルの罪を贖うために羊や牛などを犠牲として神殿で献げる役目をする人でしたが、イエスは動物を献げるのではなくて自分自身を犠牲として献げました。ですからイサクはイエスのしるしとして犠牲に献げられなければなりませんでした。しかし神がそれに「待った!」をかけたのは、イサクがイエス・キリストの先祖として生きるようにされるためだったからです。
 ところがイエスに対して神は、イサクの時のようには「待った!」をかけませんでした。このことを思うとき、愛する神の独り子イエスを十字架に死なせた天地創造の全能の父なる神の苦しみは、アブラハムの比ではありませんでした。イエスが、十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだとき、神は一言も答えませんでした。答えなかったのは、父なる神の測り知れない苦しみを表わしているのではないでしょうか。そしてこれほどまでに神は、私たちのために、私たちを罪から救い出すために、その愛のわざを果たされたのでした。
 内村鑑三が愛する娘ルツを喪ったとき、「子を持って知る親の恩、子を喪って知る神の愛」という言葉を残しています。だからアブラハムと共に私たちも、私たちの救いのために命を捨てられたキリストにおいて示された真の神の愛と恵みを求めていきたいと思います。
●ところで、神の独り子イエスと彼を十字架に死なせた天地創造の全能の父なる神とが一体であるとは、どういうことでしょうか。神の独り子イエスとは、もちろんガリラヤの村々町々をめぐり歩き、エルサレムをめざして歩み、そこで告訴され、判決を受け、十字架につけられたあのナザレのイエスです。しかし聖書は、また初代教会は、そして使徒信条は、このナザレのイエスを、<高きにいます神>であり<天と地の創造者>であると語っています。つまり彼は、神の被造物である天と地の中のどれか一つではなくて、むしろ天と地という被造界で働く神ご自身であって、旧約聖書が神ヤハウェと言っているお方です。だからこそイエスは、神の独り子として、世界の中で絶対的・究極的権威をもったお方なのです。
●世界の宗教を見ると、神に似た存在者が繰り返し出現しています。その中で古代のクリスチャンたちは、イエス・キリストが被造物ではなくて神御自身であり、単に父なる神と似た本質ではなく、まったく同じ本質のお方であると主張しました。そのことを彼らは、なんと血を流すほどに戦いました。そこから生まれたのが使徒信条であって、それを守りつづけてきた代々の教会に感謝したいと思います。
 なぜならイエスが神と全く同一のお方であればこそ、<キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だった>(フィリピ2:6~8)ことによって、私たちの救いが、罪の贖いのわざが、絶対的・究極的で確実であり、揺るぎないものであると信じることができるからです。
●新しい年を迎えた今、私たちは人生の目的は何かを考えるときではないかと思います。人生の目的とは、神に選ばれていることを知り、実際にそのことを生きることです。私は生きている、選んでいると思うと、それに振り回されます。しかし、私は生かされている、掴まれている、選ばれているのだということを知るときには、どんな状況にあっても確かな平安があります。
 そして、選ばれていることの要点にはいろいろありますが、最も大切な要点は、神の独り子イエスが、天地創造の神ご自身であることを知るということです。私たちは天地創造の前から選ばれているのです。エフェソ1章4節に、<天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました>とあります。
 私たちは、自分が選ばれたのは受洗したときだ、いやあのときだ、などと考える程度で、とても「母の胎内にあるときから選ばれた」と信じるまでには至りません。まして「天地創造の前から神に覚えられ、選ばれ、生かされている」と信じることなど並大抵ではありません。いや私たちにはできません、私たちの力では絶対できないことです。しかし神にはできないことはない、神がそのことをなしてくださいます。それが聖霊の働きなのです。
●私たちの内におられる聖霊なる神に、自分の選びを信じられないことを認めて、「私には信じられませんが、どうか神さま、信じられるように導いて下さい」と何度も何度も反復し、繰り返し祈り願うことです。アブラハムも初めから信仰の父であったのではなく、何度も失敗をくり返しますが、その都度神から御言葉を語りかけられ、「私はあなたが思っているような神ではない。私はこういう神なのだ」と何度も認識させられて、ついにあのような所にまで行ったのです。
 私たちもそのことが許されています。自分の選びを信じられるようになるとき、人の様々な言葉や振舞いに目を奪われないで、その人の存在の根拠に目を向けるようになります。つまり天地創造の前から私が選ばれているように、この人もまた選ばれていて、神の作品として、私とは違うけれども用いられていることを知るとき、人と人との関係がよくなっていきます。そういう秘訣をここで教えられていることを感謝したいと思います。

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