本日の舞台となったエリコで、盲人バルティマイの目をあけられた物語は、マルコによる福音書において、主イエスが行われた最後の奇跡、癒しの物語です。
エリコの町は当時、交通の要衝でした。いま、過越の祭りが近づいている。
46節には「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」とありますが、「大勢の群衆」とは、主イエスをメシアと信じて、ガリラヤ、ペレアの各地からついて来た者たち、エリコの人たち、および過越の祭りに都詣でをする人たち、さらに祭司たちも総動員される。歴史家ヨセフスによれば、紀元63年の過越し祭りには、約270万人の参拝者があったと記されています。
いま、彼らが群衆となって、エルサレムのへの道を急ぐ。
そのエリコの町を出た所の道端に、物乞いをする人がずらっと並んでいた。埃っぽい道端にうずくまるようにして、身を低くしているひとりの盲人の物乞いがいる。
ある聖書学者は、バルティマイは、当時エリコでは良く知られた裕福な生活をしていたティマイの子どもでしたが、盲人になったため乞食をしなければならなくなった。そして初期のエルサレム教会では、その名前はよく知られた親子だったと語っています。
47節「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、私を憐れんでください』と叫び続けた。(47節~48節)
今朝、学ぶべき第一の真理は、「信仰とは諦めない」ということです。諦めるのはすでに罪です。諦めるということほど大きな不信仰はありません。全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあっても諦めないで、望みを持って生きていくことです。それが信仰です。どこに望みがあるのか。神にあって望みを持つのです。
「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」(49節)。
主イエスが、あなたを呼んでいる。主イエスが呼んでおられるのだから、安心して立ちなさい。主を信頼して立って行きなさい、と言われたのです。
さらに、主イエスは「あの男を呼んできなさい」(49節)となぜおっしゃったのか。私は次のように思います。主イエスはこの男、バルティマイを、独りで立って、独りでここへ来るようにと、招かれたのだと思います。
「信仰とは独りで立って独りで主イエスの元へ行くことです。主イエスの招きに応える」ことです。これが第二の真理です。
50節に「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。「上着」とある言葉、英語では「マント」と訳しています。
彼にとって、自分の身を守る唯一の衣類であり、商売道具であり、唯一の財産。それを脱ぎ捨てて躍り上がって主イエスのところへ急いだのです。すべてを捨てて主イエスの元へ駆け寄ったのです。主イエスの他には、もう何も要らない。主イエスがすべてだ、ということ。
バルティマイは「すぐ見えるようになり、なお道を歩まれるイエスに従い」(52節)ました。
<弟子>とは何か。弟子とは、主イエスに従う者のことです。これが今朝学ぶべき第三の真理です。
マルコ福音書は、この後に続く第11章以下で、主イエスの「エルサレム入城」が語られ、主イエスの「受難物語」が始まります。そして十字架への道を歩まれる主イエスに結局は誰が従ったのか。ゴルゴタの丘での主イエスの十字架の場面では、12弟子たちは誰ひとりいなかった。彼らは散り散りに逃げ去ったのです。しかし、十字架への道を歩まれる主イエスの後に、最後まで着いて行った男がいた。
マルコ福音書は記したのです。その人の名は、バルティマイ。
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