2022年2月6日 聖書:ヨハネによる福音書11章32~35節「われらの主イエス・キリスト」 川本良明牧師

●コロナウィルスの感染は拡大してやみませんが、世界的に不安が広がると、世界滅亡の恐怖を煽る風説が起こることがあります。その影響のせいか分かりませんが、昨年8月、「世界の終わりの時、キリストが再臨して善人と悪人を裁く」という最後の審判を、使徒信条の「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁き給わん」を根拠にして真顔で話すのを聞いて驚きました。神の恵みを呪いに歪めているのを知って、説教の中で使徒信条を取り上げることにしました。
●使徒信条は3項から成っていて、第一項は創造主、第二項はイエス・キリスト、第三項は聖霊を語っています。それで第一項を9月と10月に「天地の造り主」と「全能の父なる神」として語り、11月は各項に「我は…を信ず」とあるので、アブラハムの信仰を見ながら「信仰とは信頼と認識と告白である」と語りました。そして12月から第二項を取り上げ、まず「聖霊によって宿り、処女マリアより生まれた」ことを語り、1月は「神の独り子イエス」を取り上げました。
●イエスが「神の独り子」であるとは、天地創造の全能の父なる神と一つであるということです。ですから彼は、絶対的・究極的権威をもったお方でした。それなのになぜ彼は、人々から憎まれ、十字架に殺されたのでしょうか。それを分かりやすく伝えている場面がヨハネ福音書にあります。10章31~33節ですが、イエスが「私と父とは一つである」と語ったとき、<ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。すると、イエスは言われた。「私は、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」>という場面です。ところでユダヤ人たちがイエスを見てこのように反応したのは、至極当然だったのではないかと私は思うのです。
●世の中には「神」が沢山ありますが、2つに分けることができます。1つは、日常生活から生まれた俗物的な神で、全く生身の人間と変わらない神です。聖書は、このような神を偶像と呼んでいます。もう1つは、いろんな宗教の神です。この神は、いくら人間が修行して、高度な、特別な境地に達したものであっても、人間が生み出したものであって、主語は人間です。なぜなら、それがどんな神であるか、いかなるものであるかを、すでに前もって人間は知っているからです。
 これに対してユダヤ人は、バビロン捕囚以後は決して偶像を造らず、拝みませんでした。またあらゆる宗教を退け、律法を授けた神を信じ、神の律法に従うことを最大の誇りにしていました。そういう彼らにとって神とは、徹底的に神聖で超越した存在でした。彼らは、<人は神を見て、なお生きていることはできない.神を見た者は死ななければならない>(出エジプト33:20等)という厳しい姿勢をもっていました。だから神は、人間の姿になることはない、まして人間と同じ経験をしたり、人間の感情に左右されたり支配されることもない。神は人間の感情を超えていると信じていました。このようなユダヤ人の中でイエスは、福音書が伝えているように、病人や足なえを癒し、パンと魚を5千人以上の人々に与え、海の嵐を静め、死人を生き返らせたのでした。しかし、いくらすばらしい奇蹟をしても、彼らにとってイエスは、所詮、ナザレ出身の貧しい身なりをした大工でした。そのイエスが、<私を見た者は、父を見たのだ>と語るのを聞くと、彼らは我慢ならず、歯ぎしりし、彼ほどのペテン師はいないと憎んだのでした。
●これに対して教会は、イエス・キリストを、真の神であり、真の人であると伝えてきました。真の神とは、ユダヤ人が神と信じる徹底的に神聖で超越した神ではなく、<神の身分でありながら、人間と同じ者になられた>(フィリピ2:6~7)ということ、つまり造り主が被造物となられ、聖なるお方が奴隷のような卑しい者となられ、永遠なるお方が限りある時間的存在となられ、霊なるお方が肉となられたということです。ですからイエス・キリストとして御自分を示された神は、世の宗教が語る神やユダヤ人が信じている神とは決定的にちがうのです。
●また人間イエスを真の人と呼んでいるのには、特別な意味があります。使徒信条は「われらの主イエス・キリスト」と告白しています。イエス・キリストを「主」と呼んでいるのは、彼が人間性そのもの、最もすぐれた人間性だからです。聖書は、イエスの顔立ちや風貌など、人間の属性については何の関心も持っていません。しかし彼は、あらゆる時代の人の隣人になれるし、逆にすべての人が彼の隣人になれるお方です。たとえば戦国時代や江戸時代の人たちは、私たちとは全くちがいます。けれども戦国時代に伝わってきたキリスト教が、急速に広まっていったのは、その時代の人たちがイエスの隣人になったからであり、逆にこのお方が彼らの隣人となられたからです。私たちは皆、人種、性別、国籍、身分、性格など様々な属性をもっていますが、人間イエスは人間の属性すべてを超えた最高の人格です。だからどんな人の隣人にもなることができる、これが「われらの主」という意味です。
●そこでイエスの人間性の一端を、ラザロの復活物語から見てみたいと思います。ヨハネ福音書11章に書かれています。ベタニア村の2人の姉と弟のラザロと親しかったイエスが、ラザロ危篤の知らせを聞いて彼女たちの所に来たときには、すでに死んで墓に葬られていました。姉のマルタはイエスに、「主よ、もっと早く来ていれば弟は死ななかったでしょう」と言い、見舞いに来ていたユダヤ人たちも皆泣いていました。先ほどお読みした聖書の個所は、妹のマリアがイエスを見るなりひれ伏して、姉と同じように言った後のイエスの様子を伝えていますが、何か特別なものを感じさせます。<彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚えた>とあり、また墓に向かって行く時にも、<イエスは、再び心に憤りを覚えた>とあるからです。そして非常に注目するのは、<イエスは涙を流された>という個所です。これは「イエス、涙を流す」の2語でできた聖書の中で一番短い文です。また「涙を流す」は「泣く」とは別の語です。
●私たちは、「私なんかまだ…、あぁ、可哀想に」と泣いたり、逆に「本当に赦せない、なぜなんだ」と自分を責めて泣きます。イエスも「あぁ、愛するラザロが死んでしまった」あるいは「あぁ、もっと早く来れば死なせずにすんだのに」との気持ちがこみ上げて泣いたのでしょうか。そうではないと思います。なぜならイエスの涙は、そうした人間の感情とはまったく異質だと思うからです。
 マリアが泣き、周りのユダヤ人たちも泣いているのを見て、イエスが泣かれたのはたしかです。しかし聖書は、「泣く」という動詞を用いないで「涙を流す」という動詞を用いて書いています。しかも「イエスが心に憤りを覚えた」ことを2回も記していることを見ると、彼が「泣いた」ことと「心に憤りを覚えた」ことには深い関連があることが、その前後の流れから明らかだと思うのです。
●イエスがベタニア村に着き、姉のマルタが彼を迎えに来ると、彼は、<あなたの弟は復活します>と告げました。彼女が、<終わりの日に復活することは存じております>と言うと、<私が復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。あなたはこのことを信じるか>と言っています。またイエスが墓に来て、天の父に感謝の祈りを捧げた後、墓に向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶと、死んで4日も経っていたラザロが、手と足を布で巻かれたまま墓から出てきました。つまりイエスは、マルタに<私は復活であり、命である>と言ったとき、すでに、まもなくラザロが墓から出て来て、人々の前に姿を現すことになると確信していました。そのことを見すえながら、今イエスが心に憤りを覚え、涙を流したことを考えると、彼は、人間を神から引き離し、神に反抗して敵対させ、人間同士を敵対させ、自分自身に敵対させて、人間を破滅に陥れていき、結局人間を死に至らせる、その最も根源的な悪、虚無に対して、イエスは徹底的に怒られたのだと思います。
●本来人間は、神の作品として造られ、神にかたどって造られ、神に祝福されています。しかし私たちは罪によって、それを台無しにしてしまい、魂は死んで、体も汚れてしまっています。この私たちを救うために、聖書は次のように伝えています。<キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました>(ヘブル5:7)。これは私たちに対する言葉です。イエスが私たちを救うために十字架に死んで下さったことを信じるならば、私たちは、罪と死の律法に死ぬことが許されます。そして、復活したイエスと共に魂は生き返り、体も聖められて、新しく霊と命の律法に生きる者とされるのです。
●いや、すでにイエスの死と復活を信じている私たちは、罪と死の律法から解放されており、罪を問われず、永遠の命に生きる者とされています。そして、真の神であり、真の人であるイエス・キリストが天にのぼって、聖霊として私たちの内に住んで下さって、霊と命の律法に生きる者とされているのです。しかも私たちのような人間性ではなく、本当の人間として、私たちの人間のすべてを、私たち以上にご存じである真の神であるイエス・キリストが、「天地創造の前から覚えてくださり、選んで生かしてくださっている」ことを信じることが許されていることを感謝したいと思います。
●じつは私たちは3つの力で生きています。1つは体力です。栄養と運動と睡眠で体力は養われます。もう1つは気力です。知性と感情と意志が気力であり、魂とか精神とも言われています。この体力も気力は皆、私たちから出てくる力、つまり下から出てくるものです。しかし最も大切なのは霊力です。これは上から与えられる力であって、私たちがどうこうすることはできませんが、神が聖霊として与えてくださる力です。<あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか>(Ⅰコリント3:16)とあるように、私たちは聖霊の神殿なのです。そして霊力に満たされると、①欲に打ち勝つ、②いろんなしがらみから自由になる、③聖霊の実を結ぶことになります。
 霊力は私たちの手でどうすることもできませんが、祈ることによって上から与えられるものです。祈りによらなければ与えられません。リンゴのたとえでいえば、皮の部分が体力、実の部分が気力、そして中心の種の部分が聖霊の宿るところです。私たちは気力によって「ああせねば、こうなりたい」との願いを果たそうとしますが、うまくいかない。しかし聖霊に祈り、神の御心にかなう者でありたいと聖霊に願うとき、そのことを神は約束してくださると聖書は語っています。そのことを感謝して、この一週間を共に歩みたいと思います。

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