2022年2月20日 聖書:マタイによる福音書5章1~12節「教会は誰のために」豊田護兄

 寒い風が吹いたり雪が降ると、母は必ず「家のない人やご飯が食べられない
人はどうしているのかね」と言います。貧しいと言うことがどんなにつらいか
よく知っているからです。そしていつもそんな人達からお金をせびられ、貸し
ては踏み倒されています。「私はこまっとらんけんね」といつも笑っています
。貧しいと人は、心もまずしくなります。
 教会は誰のためにあるのでしょう。今日食べるものがなく本当に厳しい暮ら
しをしている人は、「3000円貸して」といいます。1万円とか10万円と
は言いません。そんな人は教会にくるでしょうか。もちろん献金など払えませ
ん。もし来たとしても、教会のお話は難しくて、飢えた心と体を満たしてくれ
るでしょうか。
 キリストは難しい話しはしませんでした。例え話しをして伝えましたし、長
い難しい話しなどしてないと思います。初めて聴く人にも、つらい思いをして
いる人にも分かる話をしたのだと思います。だから多くの貧しい人、差別され
た人、病める人、多くの女性たちが従ったのでしょう。福音書の中にこれらの
人から献金を集めた話しは見あたりません。本当に必要な人の集まりでした。
食べ物はみんなで分け合いお互いが助け合いながら集まったのでしょう。
 教会は本当に貧しい人達の為に、本当にキリストの言葉を必要としている人
たちの役にたっているのでしょうか。行き場のない路上生活者のシェルターに
なっている教会もありますが、一部です。北九州の「ほうぼく」も奥田牧師が
個人でやっている団体で、教会がやっているのではありません。
 マタイ伝には「心貧しき人は幸いである」ルカでは「貧しき人は幸いである
」とあります。貧しい人は本当に幸いでしょうか、差別された人は本当に幸い
でしようか、みんなに阻害され路上で生活しなければならないひとは幸いでし
ょうか、キリストのもとに集まった多くの人達はどうだったのでしょうか。教
会は、そんな人達のために有るのだと最近強く思います。難しい話しを理解し
、献金が充分に払える人たちだけの物ではない気がします。

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