2022年2月27日 聖書:ルカによる福音書18章35~43節 「自立への招き」茶屋明郎牧師

  ある盲人がイエスとの出会いによって、目が見えないことによって道端に座って物乞いをせざるを得ない、悲惨さ、悲しさ、悔しさ、不安や恐れ、そして絶望的な思いかあったけれども、主イエスとの出会いによって、それらの思いから解放され、喜びと平安、自由と希望と勇気ある、自律した生き方が生まれています。それは、彼が必死になって「私を憐れんでください」と叫び続けたことによるものでした。
 彼の救いを求める叫びは、叫びをやめさせようとする無慈悲な人々の偏見や差別意識に勝ち得て余りあるほどの、人間の尊厳を取り戻したい、自分の足で立ち上がっていきたい、自律していきたいという強くて、真摯な、必死な願いでした。
 主イエスは、立ち止まって、ご自分のそばに連れてくるように命じられます。このイエスの姿に彼はどんなに慰められ、癒され、平安がえられ、希望を抱くことが出来たことか。辛く、悲しい思いをぶつけられる人、しっかりと自分の気持ちを聞いてくれる人に出会えたという大きな感謝の思いが生まれたに違いありません。
 主イエスが、彼に、「何をしてほしいのか」と尋ねられたのは、彼の願いの本気度を試したかった。せっかくの機会だから、癒されなくても、もともとだ。願わないよりは願った方がよい、願わなければ、癒されることもない。願えば、もしかしたら癒されるかもしれない。だから願ってみうかというレベルであるのかどうか。そうではなくて、本気になって、癒されて、自律したいと思っているのか、そしてその願いに必ず答えて癒す神の力を持っている方だとご自分を信頼しているのかどうかの本気度を試したかった。
 そして癒してほしい、癒してあげようと言う思いで心が一つになってこそ癒す聖霊が働くと確信していたからかもしれません。
 主イエスは、「憐れんでください」と叫び続ける彼の思いに、確かな信仰を確認できて、神の力が働いていやしてくださることを確信して、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」という言葉がかけられます。そのような中で彼の眼は開いて見えるようになります。
 この出来事に触れた多くの目が見えない人達の中に、実際には肉体の目は閉じたままであるが、心の目、魂の目が開かれて、自殺にまで追い込まれる苦難を乗り越えて、自律して、生き生きと喜んで、希望を抱いている人が数多くおられます。

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