2022年3月13日 聖書:マタイによる福音書21章33~46節 「苦しみを受けた神の子」 川本良明牧師

●イエスさまが神の国を伝えるときは、じつに分かり易い譬え話で話されました。しかしそれを聞いた人々がそれを正しく理解できたかどうかは疑問です。たとえば種まきの話は、「道端に落ちた種、石地に落ちた種、茨の中に落ちた種はどれも実を結ばないが、良い地に落ちた種は30倍、60倍、百倍もの実を結んだ」と大変分かり易いですが、弟子たちでさえイエスにその意味を尋ねています。
 恐らく弟子たちはたとえ話を聞くたびに自由にその意味を尋ねていたと思います。しかし大切なのは、この種まきの話の後にだけ紹介しているイエスの言葉です。マタイ福音書では13章11節以下にありますが、「私が語っているのはすばらしい神の国の秘密です。しかし悟らないならば神の国に入ることはできず、そのこと自体が神の裁きなのです」と、大変切迫したひびきをもって語られています。
 彼が公の活動を始めたときの第一声は、<時は満ち、神の国は近づいた>でした。これは「来た」という言葉と一緒に聞き取らねばなりません。単なる予告ではなく、「時は満ちた」つまり「彼においてすでに神の国は来ている」ことを意味する神の啓示であり、きわめて切迫した事態が起こっていることを告げているのです。
●先ほどお読みした聖書の言葉もたとえ話ですが、これもすばらしい天国の秘密を語っています。「ぶどう園と農夫」の話は、祭司長やファリサイ派の人々だけでなく一般の群衆もよく知っていました。なぜならユダヤ人は毎週会堂で礼拝し、聖書を聞いていたからです。その中にイザヤ5章1~7節の「ぶどう畑の歌」があります。この中の「私」とは万軍の主なる神です。また「ぶどう畑」はイスラエルの民のことです。神はイスラエルを愛し、すばらしいぶどう園を備え、良いぶどうの木を植え、良い実を期待したのに、できたのは悪い酸いぶどうだったというのです。
 ですからイエスが「ぶどう園」の話をしたとき、人々は、イエスがイスラエルの民に対する神の愛と期待を語っているのだと正しく理解しました。ところが彼が、その神の期待を裏切る内容を語り出したとき、空気は一変し、緊張が走りました。イザヤは酸いぶどうを語りましたが、イエスは遣わされた主人の僕たちが袋叩きにされ、殺され、遂に主人の息子までが殺されたと語ったからです。
●この譬えを聞いたとき、人々はイエスを正しく理解できたのでしょうか。他のたとえ話の場合、人々からその意味を尋ねられていましたが、このときはイエスの方から、<ぶどう園の主人はこの農夫たちをどうすると思いますか>と尋ねました。<その悪人どもを懲らしめ、殺し、ぶどう園は他の農夫に貸すはずだ>と、全く正しい答えを得ると間髪入れず、イエスは、「殺される息子とは私のことだ、また農夫とはあなた方のことだ。そして神が遣わした僕や私を殺すあなた方に代わって、私を信じて受け容れる異邦人が、あなた方が軽蔑している異邦人が、神の国に入るのだ」と、じつに大胆かつ明確に断言しました。
●この言葉によく注意していただきたいのです。このように語ればどんなことが起こるか目に見えています。事実これを聞いた人々は歯ぎしりし、ますますイエスへの憎しみを募らせていきます。明らかにイエスは、苦しみ、捨てられ、殺されることを自分の方から引き受けようとされています。なぜ彼はあえてそのようにされたのか、何をされようとしているのか、正確には分かりません。しかし、これによって彼らの隠れていた罪が、あらわになり、暴露されたのではないでしょうか。
 ここに登場している祭司長やファリサイ派の人々は、決して悪人ではありません。じつに真面目な、敬虔で信仰深く、人々から尊敬もされていました。しかし敬虔さをよそおっていても、イエス・キリストに直面すると明るみに出されます。その隠れている罪が暴露されると人々は抵抗します。どうしてそのようになるのか。それは、イエス・キリストこそ体を張って、つまりやがて十字架の上で命を投げ出し、人間の罪を滅ぼし、罪のもたらす死を滅ぼしてしまうお方だからであって、イエスはそれほどに強い緊張感とさし迫った思いの中にあったからです。
●私たちは皆、神に造られた存在です。神の作品として、すばらしい人生を送ることが約束されています。しかし私たちは、私たちを造られた神を忘れ、神を捨てて、好き勝手に生きています。とはいっても人間は皆、神の作品であるかぎり神を必要としています。そのために人間を造った真の神に代わって、人間が造った神をそれに置き換えて生きていかなければなりません。ですからすべての人は宗教心を持っていて、何らかの宗教に生きています。もっとも「宗教」ではなく運命や占いや様々な神の名前あるいは無神論と表現することはありますが同じです。要するに人間は例外なく宗教の中で生きていかねばならないし、生きています。
●しかし、どれほど高尚で特別な境地に達した宗教であっても、人間の罪を指摘し、罪のもたらす苦しみの現実を指摘することはできますが、罪を滅ぼすことも苦しみの現実を滅ぼすこともできません。それが宗教の限界です。たとえば仏教はインドのバラモン教から発生した宗教です。この世は苦の輪廻の中にあり、苦の現実から解脱するための教えが説かれています。釈迦も苦しんでブッダガヤの木の下で冥想して悟ります。そして「執着こそ苦の原因である」として、「この世は無常であり虚仮である」など、執着から離れるための教えを説いた後、大往生を遂げますが、彼は死を滅ぼし、苦しみを滅ぼしたのでしょうか。そうではないと思います。
 私たちは、自分が必ず死ぬ者であることを知っています。そして死を鋭くあるいははかなく、強くあるいは弱く、たくましくあるいはむなしく、といった様々な形で表現はしても、死には抵抗できないし、宗教は死そのものを滅ぼすことはできません。それは、日本の自然宗教である神道でも仏教でも例外ではありません。
●天と地を創造されたまことの神が、その独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされたのは、まさに宗教が支配するこの世、すべての人が何らかの宗教に生きているこの世でした。そして彼は、宗教が罪のためにできなかったこと、肉の弱さのためにできなかったことを成し遂げられたのです。これについて使徒パウロは、<肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです>(ローマ8:3)と語っています。つまり神の子イエス・キリストは、そのために苦しまれたのです。
●使徒信条では、「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白していて、イエスの苦しみはポンテオ・ピラトから始まっているように思われがちですが、そうではありません。彼は罪を滅ぼすために罪の体となられ、また死を滅ぼすために死ぬべき体となられました。そして罪を滅ぼすために十字架の上で死なれ、復活して死に勝利しました。イエスは人間のために死ぬことでしか人間を救うことはできないと考えておられたのです。
 イエスについてルターは、「彼は悪人どものただ中で、極悪人という称号を付けられて、罪人が受けるべき裁きと刑罰とを受けて、十字架に付けられた一人の罪人となった」と語っています。今日の説教題が「苦しみを受けた神の子」とあるのは、神の子イエスが私たちの罪を滅ぼし、罪の結果としての裁きの死を滅ぼすために苦しみを受けられたからです。くり返しますが、いかなる宗教も、罪も罪がもたらす死も、苦しみの現実も、滅ぼすことはできません。しかしキリストは、ご自身の命を捨てて罪を滅ぼし、死を滅ぼし、復活してその業を成し遂げられました。そして彼と彼の業を信じるとき、私たちの罪も苦しみも死も滅ぼされるのです。
●とは言ってもなお私たちは罪に苦しみ、死の恐れの中にあるではないかという声が聞こえます。これについてイエスは言われています。まもなく弟子たちにも捨てられ、十字架にかけられる直前のときです。<あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。>(ヨハネ16:23)。
 苦しみはなおあります。罪の中にあり、肉に生きている限り、私たちにはなお罪が招く苦しみがあり、肉が招く弱さや虚しさ、はかなさがあります。しかし、キリストは、私たちに代わって十字架に死んで私たちの罪を裁かれ、罪を贖ってくださり、私たちの罪をいっさい過去のものとし、私たちを永遠の命に生きる者し、復活して、そのことがゆるぎないことを宣言されました。
 しかしなお苦しみがあり、罪が私たちを襲い、弱さやはかなさに襲われることがありますが、イエスは、<これらのことを話したのは、私によって平和を得るためである>と言われています。どんな状況にあろうとも、どんな状況になろうとも、コロナであろうと地震や戦争の現実が起ころうとも、その中にあっても動揺しない<たしかな平安、キリストの平和>が約束されていることをあらためて感謝し、この一週間を共に歩みたいと思います。

聖書のお話