2022年6月5日 聖書:ルカによる福音書20章20~25節 「神のものは神に返しなさい」 川本良明牧師

●ただ今お読みしたのは、イエスが公の活動を始めたとき、彼に一瞬のうちに全ての国々を見せて、「もし私を拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄を与えよう」と囁いた悪魔が今、公然と都のエルサレムでユダヤ人指導者たちを通して迫ってきた場面だと言えます。彼らはイエスの言葉じりをとらえて総督に引き渡し、殺そうと狙っていました。総督とは、ローマ皇帝の代理人で、ポンテオ・ピラトが任命されてユダヤ全土を支配していました。一方ユダヤ民族は、ローマ帝国から支配されながらも律法を民族の存在根拠としていました。神から授かった律法を守ることに命を賭けていました。そういう彼らが今、イエスに難問を掛けてきたのです。
●「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、いないでしょうか」。もし「適っている」と言えば、神と民族への裏切者となり、「適っていない」と言えば、皇帝への反逆罪となります。しかしイエスは、そのどちらにも答えず、「ローマ貨幣を見せなさい。そこに誰の肖像と銘があるか」と尋ねました。彼らが「皇帝です」と答えると、<それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい>と言われて、みごとに彼らの罠を打ちくだきました。
●私たちは、この世界のすべてのものは神のものであることを知っています。天地創造の際、<神は言われた、…そのようになった>とあり、神は様々なものを造った後、最後に人間を、ご自分の栄光を現わすように、神の作品として、神の似姿として、神に祝福された存在として造られました。このように全てのものは神のものです。月も地球も神のもの、すべての土地は神のものです。
 北方領土は日本のものではなく、ウクライナはロシアのものではありません。もしも、<神のものは神に返す>ことが完全に実行されたら、世界は神の御心に適う世になると思います。ですから、<神のものは神に返しなさい>ということこそ大切だと思うのですが、イエスはそれを語る前にまず、<皇帝のものは皇帝に返しなさい>と言われました。なぜ皇帝のことを語ったのでしょうか。
●神一番でなく私一番に生きることを聖書は罪といいます。罪のために毎日、犯罪は起こり、秩序は破壊されています。もしも犯罪を取り締まり、秩序がなくなればどうなるかは火を見るより明らかです。じゃ神は、見て見ぬふりをし、好き勝手にさせているのでしょうか。そんなことはありません。それどころか神はいつも社会の隅々まで愛の眼差しを注いでいます。神には私たちが測り知ることの出来ない計画がおありなのだと聖書は語っています。たとえば、<あなたの神、主はこれらの国々を徐々に追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼしてしまうことはできない。野の獣が増えて、あなたを害することがないためである>と神がモーセを通して語っています(申命記7:22)。またイエスも「毒麦のたとえ」を語っています。敵が毒麦をまいたので麦の中に毒麦も現れました。そこで僕たちが主人に「抜き集めましょうか」と言うと、<麦も一緒に抜くかも知れないので、刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい>と言われています(マタイ13:29~30)。
●イエスが、<皇帝のものは皇帝に返しなさい>と言われたのは、「あなたがたは日常生活で皇帝の銀貨を使っており、その税金で道路整備や市場の開設などの恩恵を受けて仕事や商売ができているし、また役人や警察、兵士などのおかげで社会の秩序は守られ、犯罪は取り締まられて生活が守られている。これらは皆、皇帝の権力とローマ法による支配のおかげではないか」という意味です。
 だからといって、権力に無条件に従えと言っているのではありません。ピラトがイエスに、「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」と言ったとき、<神から与えられていなければ、私に対して何の権限もないはずだ>と言われています(ヨハネ19:11)。
 人間は罪のために自ら混乱を招いています。この現実を神は、力づくで抑え、罰するのではなくて、神のものである権力を、人間である皇帝に託しているのです。ですから皇帝が、その権力を神から託された権力として用いている限り、皇帝に従うのは神に従うことなのです。しかし、もし皇帝が神の御心を超えて権力をふるうならば、そういう皇帝に従うことは神に背くことになるのです。
●しかし皇帝が皇帝であるかぎり、皇帝に従うことは不可能です。なぜなら皇帝は王ではなく神だからです。皇帝とは中国の秦に始まります。元来、中国古代の支配者は、天の神である天帝に占って、天帝の意志である天命に基づいて国を治めていました。日本の邪馬台国も卑弥呼が鬼道に仕え、弟が政治を行なっていました。
 ところが戦国の世を統一した秦の支配者は、自分を天帝と1つにして神となり、皇帝と称しました。これが秦の始皇帝です。古代ローマでも支配者は、国王や執政官などと呼ばれていましたが、執政官オクタヴィアヌスにアウグストゥス(神)という称号を元老院が与えて皇帝となり、皇帝礼拝が始まります。神から託された権力ではなくなったため、ユダヤ人と教会はきびしい時代を迎えることになりました。
●<皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい>と<神から与えられていなければ、何の権限もないはずだ>というイエスの言葉によって、権力に対する正しい認識と権力を前にして取るべき態度と判断と勇気を与えられることを心から感謝したいと思います。というのは、現在世界で皇帝の称号を持つのは天皇だけだからです。日本の皇室は王室ではありません。イギリスの女王は神ではなく人間ですが、天皇は神です。憲法において天皇条項があるかぎり、教会にとって律法の第一戒に従うことに関係することになります。ですから私たちは、<神のものは神に返す>ことが真剣に求められています。
●人類の最初の先輩が罪を犯したとき、神から最初に問われたのは、<あなたはどこにいるのか>でした(創世記3:9)。神から身を隠した途端、自分がどこにいるのか分からなくなったのです。こういう人間の世界に、神が人間イエスとなって来られたのは、<私は、失われたものを捜して救うために来た>ということでした(ルカ19:10)。
 私たちはお金や衣食住などで生きてはいますが、罪のために大切なものを失っています。時間も住んでいる場所も命もみんな神のものなのに自分のものにしているために、むしろそれらを失ってしまっています。だからそれらを神に返さないかぎり、時を見分けることも自分の居場所も何のために生きているのかも分からないままでいることになります。そこでこれらについて簡単にふれたいと思います。
●まず時間です。今がどういう時なのか分からない場合、過去を愚痴り、未来を不安な目で見ることになります。神を信じるとは、永遠の神とつながって今を生きることです。過去から未来に生きる私たちは現在がありません。しかし神は、私たちの時間を超えた永遠の時間にあります。ですからまず神に目を向けるとき、今を取りもどすことができるのです。だから「主よ、どうか今は恵みの時であることを実感させて下さい」と聖霊に祈るとき、無味乾燥な生活が変わります。
 イエスがパンと魚を持って神を仰いで祈ったとき、何千人もの人にそれを配った弟子たちの姿を思い出します。僅か3年半の短い時間に語られたイエスの言葉は、二千年間、生きた言葉として多くの人を養ってきました。その神が今、この瞬間に私たちに語っておられるのです。神の言葉(=聖書の言葉)は、私たちと違って、語られると出来事になります。毎日食べているのは肉の体を養うものです。それも大切ですが、聖書の言葉は、天からの命のパン、霊の体を養う永遠の命の食べ物です。一期一会の神の言葉を聞けば、一生忘れないし、生かされます。
●次に場所です。祈っても生き生きとしない、信仰も何かしら張りがないとすれば、それは自分の現住所が神に伝えられてないからではないでしょうか。ヨットで2度目の太平洋単独横断に成功した堀江謙一さんは、60年前は太陽や星の角度などで自分の位置を測っていたが、今は衛星による位置確認ができると言っています。私も真夜中に高速を走っていて分からなくなって物凄く不安になりました。そして神に祈っているとスマホに気づき、自分の位置が分かってホッとしたことがあります。
 今自分がどこにいるのかを神に知らせることは大切ですが、地上の現住所ではなく魂の場所となると難しい。本当はどこもみんな神の手の中にあるのに、自分の場所がはっきりしないからです。自分の魂の位置が分からないことは本当に怖いです。ところがある人が聖霊によって、「今自分がいるところを現住所にしたらいいと示された」と言われるのを聞いて本当に恵みでした。「こんな自分を…。知らせたくない」と思います。しかし、それでいいのです。ありのままの自分を差し出して、「主よ、私はここにいます。語ってください」と祈ることです。
●最後に自分の存在、命のことです。自分を見失うのは人を見るときです。人と自分を比べて嫉んだり劣等感に陥るのは、命を授けている神を見失っているためです。復活したイエスと再会したペトロは落ち込んでいましたが、イエスから3回「私を愛するか」と言われて元に戻りました。すると彼は、「あの人はどうなのですか」とイエスに尋ねました。するとイエスは、「あの人が長生きするかどうか、あなたには関係ない。あなたは私に従って来なさい」と言われています。そのように人に目を向けるのではなく神に目を向けて自分を見ることが大切だと思います。
 祈るとき私たちは、「しもべ語ります、主よ聞きたまえ」と祈ります。それもいいのですが、しかし、「しもべ聞きます、主よ語り給え」と祈るとき、神のものを神に返すことが起こるのではないかと思うのです。
●<神のものは神に返しなさい>と言われるイエスの目には、十字架の死がはっきりと見えていました。同時にイエスの目には、罪に支配されているすべての人に対する容赦のない神の裁きと刑が、自分の身に実行されることも見えていました。そして神の裁きは終わり、神の愛と義が打ち建てられ、すべての権力が神に返されたことをはっきりと見て、イエスは喜びました。その彼を神は復活させ、聖霊として私たちのもとに遣わされました。今日は聖霊降臨を覚える日ですが、私たちもイエスの霊である聖霊にあずかって、神の国を嗣ぐ住民として、今を生きる力が与えられていることを感謝し、この一週間を歩みたいと思います。

聖書のお話