2022年6月12日 聖書:マタイによる福音書6章25節~34節「自由に生きる」大藪善次郎牧師

隠退して早や三年、聖書を新しく読み返してみた。一日でマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒行伝を一気に読む。そうすることによって、イエスが我々に何を訴えたいのかが知りたかったからだ。まず、イエスは自分の民が世界の光となるように願っている。次は民と一身一体となってその罪を負うことを決意した。そこでは神の裁きが差し迫って来ているからだった。 最近、田川健三氏が直訳という形で新約聖書を出した。本日のテキストの中で、「その日の悪はその日で十分なのだ」(34節)と訳しておられた。従来の聖書は全て「その日の苦労」と訳している。我々の存在そのものには善なるものは無い。パウロも「義人はいない。一人もいない。」と言っていることと一致する。我々の存在そのものが悪であるなら、我々は神の赦しなくして、どうして生きていけるのか。思い悩むということは、悪の本質である。それから解放されるには、神の赦しを受け入れることから始まるのである。悪が支配する世界の中で、我々はまず大きな世界的な外観を描き、その後初めて、我々はいかに神の赦しを受け入れ、それを自分の中に留めるのではなく、他人に伝えていくことへと向かうことが伝道なのだ。自由に生きるということは、イエスに従って生きるということである。そこでは独りよがりではなく、共に生きていく人々との共同作業なのだ。それには困難が伴う。しかし、その中にあっても常に癒しのしるしを見つける努力をすることである。

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