2022年6月19日 聖書:マルコによる福音書7章31節~35節「人生の目的」川本良明牧師

●今月5日のペンテコステ礼拝で、<皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい>というイエスの言葉を聞きしました。これは、「皇帝の権力と法律のおかげで生活できているのであれば、皇帝に従いなさい。しかし皇帝が権力を、神から託されたものとしてではなく乱用するならば、皇帝に従ってはならない」という意味です。ところがローマ帝国が皇帝を神として拝ませるようになると、信仰の先輩たちは、「皇帝は権力を乱用している」として皇帝に従うことを拒否したために迫害を受けました。その伝統を受け継いだ代々の教会の長い戦いによって、今や世界には、神を意味する皇帝はいなくなりました。まさに神は、モーセに始まる奴隷解放を、少しずつ、時にふさわしく、着実に進めておられると思うのです。
●イエスを信じ、聖霊の宮である私たちは、<皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい>と<神から与えられていなければ、何の権限もないはずだ>というイエスの言葉によって、権力を正しく認識し、また権力に対する態度や正しい判断と勇気を与えられることを信じて、希望をもって歩みたいと思います。
 というのは、現在世界で皇帝の称号を持っているのは天皇だけだからです。天皇とは、記紀の神話が語っている天照大神の子孫であるという称号です。天皇を尊崇する人たちが、1つの宗教法人として集まるのは信教の自由です。しかし憲法に天皇条項があるかぎり、私たちは信仰の先輩たちが直面した戦いを避けることはできません。しかしそれは同時に神からの大いなる恵みに与ることでもあります。
●今の政治情勢を見れば、自民党による憲法改定案の実現が迫っています。内容は条文だけでは分かりにくいですが、歴史をふり返るとよく見えてきます。それは、昔の大日本帝国のような天皇を頂点とする国家を、新しい時代におけるビジョンをもって再現することを目指すというものです。
 かつて江戸幕府を倒して新しい国造りを目ざした人たちは、欧米視察旅行に出て、各国の制度や憲法を見て回り、同時にそれらの根柢にある思想に注目しました。そして、憲法制定の前年、枢密院議長伊藤博文は次のように演説しています。
 「今憲法ヲ制定セラルルニ方テハ、先ス我國ノ機軸ヲ求メ我國ノ機軸ハ何ナリヤト云フ事ヲ確定セサルヘカラス。…抑歐洲ニ於テハ…宗教ナル者アリテ之ガ機軸ヲ爲シ。」つまり、憲法を制定するには、国家の機軸が必要である。欧米諸国には議会などいろんな制度があるが、議員や王、人民に至るまでよくまとまっているのは、キリスト教という機軸があるからである。「然ルニ我國ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ國家ノ機軸タルヘキモノナシ。」つまり、ところが日本には機軸がない。仏教も神道もそういう力はない。それでは欧米のキリスト教を学んで取り入れるのかというとそうではありません。「我國ニ在テ機軸トスヘキハ獨リ皇室ニアルノミ。」つまり、皇室が日本の基軸となるべきで、これを土台として憲法を制定し、様々な制度を作っていくべきであると言うのです。
●この翌年に帝国憲法が発布され、「第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めて、天照大神の子孫である神武天皇から続いている天皇が国を治めるとしました。天皇が治めるのを国体といいます。そして日本の王朝は、切れ目なく続いていて、世界で最もすぐれた国体であるというわけです。また第3条で天皇は神であると定めました。
 さらに翌年の1890年に教育勅語が発布されて、学校において子供たちに、国体と天皇崇拝を教え込み、一旦戦争になったら自分のことは捨てて国体のため天皇のために命を献げるように叩き込みました。
 また神社神道は宗教ではなく国民儀礼である。どんな宗教も信教は自由であるが、国民儀礼には絶対に従わねばならないとされました。この国家神道という宗教のもとで、日本史上最も洗練され、徹底した奴隷制社会が確立したと言えます。なぜなら、これまでは、各地の殿様に仕えていたのが、これからは全国津々浦々を治める天皇に仕えることになったからです。
●一見平等で、国民は心を1つにして奉仕する精神を養われたのですが、それは、天皇が支配し、人権を認めない上での一致であって、江戸時代の五人組制度をもっと徹底させた監視社会となったということです。「空気を読め、世間に従え」と言われ、周りに合わせるのに一生懸命で、自分の意見をいうと変わり者とされ、排除されます。これは戦前の話ではなく戦後75年を過ぎた今の話です。こうした風潮の中で自分を見失ってしまう中で、自分を取りもどすにはどうしたらいいのか、そのことのヒントが、今日お読みした聖書にあると思うのです。
●そこでマルコ7章31~37節を読んでみます。……(略)。皆さんは、この中でどの言葉を取り上げますか。いろいろおありだろうと思いますが、私は、<イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出した><天を仰いで深く息をつき、「エッファタ」と言われた><口止めされた>という3つに注目しました。
●最初の、<群衆の中から連れ出した>ですが、当時のイスラエル社会は、律法が重んじられながらも宗教化して、それを厳守する律法学者やファリサイ人たちが、神の名によって支配する監視社会となっていました。そういう中で聾唖の彼が、どんな生活を送っていたのか分かりませんが、耳の悪い人が私に「聞こえないときは聞こえるふりをして皆に合わせている」と言われました。この聾唖者も聞こえるふりをして周りに合わせていたのではないか。けれどもうまくかみ合わないとダメージを受け、自分を卑下し、おどおどします。
 このことで忘れられないのは、関東大震災で多くの朝鮮人が虐殺されましたが、聾唖者も殺されました。朝鮮人と日本人を見分けるために「五円五十銭と言ってみろ」と自警団から迫られても聞こえないので怯えている聾唖者を殺したのです。こうした極端なことではなくても、いつも追いたてられて、もっと上にもっと上にと頑張ることで自分を失ってしまいます。見栄えはしなくても、バラはバラでいい、ツツジはツツジでいい、ありのままに生きればいいのです。イエスが群衆の中から彼を連れ出されたのは、そのためでした。
●しかし、連れ出された彼は、どこに行くのでしょうか。非人格的なところ? それとも人格的な出会い? 非人格的とは、たとえば、子供のことで悩んでいる親がよく口にするのは、「お前のために何でも欲しい物を買ってやったのに」です。しかし子供は、ボクはボクの部屋もゲームもいらない、運動会のとき来て欲しいと願っている。命のふれあいを求めているのに気がつかないでいます。
 それは教会でも見うけます。しょうがい者が人数の少ない小さな教会に来ました。教会の人たちに歓迎されて喜んだのですが、何回か来るうちに、周りが石のように冷たく感じ、距離を感じるようになりました。しかし周りは気づかない。自制をこめて言うのですが、しょうがい者であるその人自身と関わろうとしないで、ただ礼拝の出席人数が増えたことを喜んでいることに気がついていない。しかし、しょうがい者であろうとそれを迎える人であろうと罪人であり、自己中心で、心は冷たく、みんな人格的な出会いができないでいるのではないでしょうか。
●そこでもう一度、聾唖者の彼に目を向けたいと思います。彼は突然、人々に囲まれ、つかまれました。そして何が何だか分からないままに、或る人の所に連れて行かれると、人々が自分を指さしながら、その人に何かしきりに言っています。やがてその人は振り向いて、自分を見ました。静かで、落ち着いた、平和そのものを感じた彼は、生涯忘れることのできない印象を受けたのではないでしょうか。
 まもなくその方は、静かに彼を群衆から離れたところに連れて行き、一対一で向き合い、その指を自分の両耳に差し入れ、それから唾をつけて舌に触れました。彼はその仕草を目で追いながら、なすがままに身を委せていました。やがてその方は、天を仰いで深いため息をつくと、自分を見つめ、何かを語りかけてきました。その眼差し、顔にかかるその人の息など、その人格そのものから感じ取れたことは、聾唖者として、これまで辿ってきた辛い人生の道のりを、この方は、自分が知っている以上に知っておられるということでした。それほどまでに、細やかに彼を扱い、一言で言えば、「愛」という言葉に尽きるお方でありました。
●そして突然、人々のおどろきの声が聞こえてきました。<すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった>と聖書は告げています。長く自分を失ってしまい、彼を支配していた冷たい石のような心の中に温かい温もりが生じました。聾唖者に一対一で向き合い、指を両耳に入れ、唾して舌に触れ、天を仰いで呻き、<開け>と言われるまでのイエスの一連のしぐさは、まさに私たちの中に住んでいる聖霊の姿ではないかと思います。聖霊はイエスの霊です。イエスは馬小屋で生まれました。馬小屋で生まれるのは馬です。その馬小屋でイエスは生まれたのです。また飼葉桶というのは、石をくりぬいたエサ箱です。そこにイエスは身を置かれたのです。世間を恐れ、自分を失って、石のように冷たくなった心の中に、イエスは来られ、今、聖霊として住んで下さっています。
●世間から連れ出し、父である天の神に目を向けさせて、自分の人生を生きる者とされた後、イエスは口止めされました。彼は奇跡を起こす度に、<誰にもこのことを話さないように>と口止めしています。それは、弟子たちも含めて人々が、本当のイエスを理解していないからではないでしょうか。この奇跡が起こったとき、人々は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と驚いていますが、メシアとしての彼を本当に理解していない。それは私たちも同じではないでしょうか。
 ですからイエスを本当に理解するには、人を見るよりも自分の中にある聖霊に目を向け、聖霊に語り、求めていくことです。イエスは、<その方が来れば、罪について、義について、裁きについて明らかにします>と言われ、<その方が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる>と約束しています。そして聖霊は、私たちに、<愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、誠実、柔和、自制>などの実を結ぶことを約束しています(ガラテヤ5:22)。それを知ることも大切ですが、血となり肉となって、生活の中で、聖霊にあって生きることが求められています。そのときにイエスのことが本当に理解できるようになると思います。
 そのためには、祈ることです。祈りによってこれらのことが実態となり、本当の自分を取り戻し、恐れることなく、世間を気にすることなく、自分らしい人生を送ることができ、また自分に与えられている人生の目的を見出せると思うのです。
●小さな経験ですが、駐車違反で警察署に行きました。いつもであれば、自分を正当化する言葉や怒りなどがわき上がり、結局は警察官とやり合うのですが、しかし、このときは、主に助けを求め、祈りつつ待っていると、<何をどう言おうかと心配するな。言うべきことは聖霊がそのとき教えてくれる>というイエスの言葉が聞こえてきて、平和な気持ちになり、ことの成り行きを客観的に見るような感じでした。まったく争う気持ちも起こらず、そのまま駐車料金を払いましたが、これは聖霊の働きだと思い、換えがたい喜びでした。皆さん一人ひとり、それぞれの場所で、聖霊を与えられ、聖霊に生きておられると思いますが、この恵み、喜び、平和を共にあずかっていきたいと思います。

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