2022年6月26日 聖書:マタイによる福音書7章13~14節「狭き門より入れ」豊田護兄

 現代における「狭き門」とは何でしょう。先日友人と話して思いついたのは、「便利」と「不便」についてでした。38年前おばあさんのピアニストとパリに行った話をしました。アンカレッジを回って19時間かかりましたと告げると、『なんと夢のない旅だと一蹴されました』、船で4週間、汽車で20時間かかって着いたとか。毎晩レストランでピアノ演奏して練習させてもらい旅費を負けてもらったとか。確かに夢のある豊かさを感じました。
 
「便利」の後ろにある「失うもの」を考えました。パソコンーペン・鉛筆・消しゴム【時間・考える作業】、飛行機―船・列車【時間】、本―スマホ【選ぶ・考える】、電子辞書―辞書【時間】、車―歩く【時間】、身の回りの便利な物を挙げてみると、ほとんどが時間を短くし失うものは、ゆっくり考える時間やのんびり過ごす時間になります。エネルギーについても石炭から石油、小麦・米、もすべて他所か買えば便利と切り捨ててきました。
 
珈琲やお茶も100円で1ℓ買えますが、味に対する個別化はなくなり、皆同じ味しか分らなくなってしまいます。そしてみんな考えなくなり、身の回りを疑わなくなっていきます。お茶や珈琲なら許せますが。「情報」が操作されていたらどうでしょうか。日本の報道の自由度は世界で70位以下で、信頼はとても低いのをご存じですか。

 「狭き門」とは、皆が疑わない物や情報や便利だと疑わないもの物の反対にある物なのではないでしょうか。世の中の多くの人が大事にして当たり前だと思っている物をもう一度考えなおしてみることなのかもしれません。

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