2022年7月3日 聖書:イザヤ書43章1節 「喜べ、神と共なる人生」 川本良明牧師

●6月の説教で、75年以上前の日本は、個人は否定され、世間に従わねばならない徹底した監視社会だったと語りました。憲法で国体護持が定められ、学校では子供たちが天皇崇拝を教育され、国民は神社参拝を義務づけられて、天皇を中心にして1つにまとまり、公のためには私を捨てて命を献げることが子供の時から徹底的に教えられたので、一見みんなで助け合う滅私奉公の社会のようでしたが、実際は我慢することで成り立っていた社会でありました。
 ところが、いわゆる玉音放送によって敗戦を迎えたとき、国民の間には、正直言って、解放された安堵感が広がりました。同時に、これまで生きる拠り所にしていた滅私奉公や我慢する目標を失った一般国民の精神的な打撃は、測り知れないほど大きいものでした。
●この空白を埋めたのがアメリカ軍の上陸でした。その占領政策をとおして日本人の目を引き、憧れたのはアメリカ文化の中にある自由と自立でした。この影響はまたたく間に子供たちの間に広がり、東北地方の子供たちの間に「勝手だべ」という言葉がはやってきました。悪いことをして先生から注意されると「勝手だべ」というのです。権威に縛られない開放感を反映していますが、自立の伴わない自由は、好き勝手な我儘放題となっていきました。アメリカ文化の花に憧れても根がないために、結局、自由と自立が育たず、自立は孤立となり、自由は強烈な自己主張となっていきました。孤立と強烈な自己主張という精神的な影響は、長い期間をかけてじわじわと深刻な状況への導いていったのではないでしょうか。
●戦前は我慢を軸にして互いに助け合っていたのが、戦後は自由と自立を求めながらも孤立社会となり、今や引きこもりは60万人を越えると言われ、深刻な事態を招いています。またいじめや好き勝手な無責任の風潮が広がっています。だからといって昔のような連帯感と一致感に戻ることは不可能です。それらは裏切られたのです。保守反動がいくら躍起となって昔に戻そうとしても、見せかけの助け合いなどは二度と戻れない。なぜなら、どんなことにも我慢しなければならない我慢の精神は、今はもう無いからです。
 しかし私たちは、それ以上に真剣に考えねばならないのは、戦前の歴史はもちろんのこと戦後70年以上の歴史も、神の裁きと恵みのもとにあるということです。歴史は、らせん形のように、もとに戻るように見えながらも前に向かっています。その根柢に流れているのが神の裁きと恵みです。
●いま世の中は、本当の自立した人間を求めています。そういう世にあって、私たちには、本当の自立と自由に生きる力を約束されています。そこにこそ希望があると信じて、イザヤ書43章1節から真の自由と自立を与えられたいと思います。
 イザヤ書には「苦難の僕」についての預言が4つ(42、49、50、52章)書かれています。その最初の42章には、平和の君であるキリストが来られ、どんなことをされるかが紹介され、<私はこれらのことを成就させ、見捨てることはない>(16節)と、すばらしい希望の預言が語られています。しかし、<イスラエルの民は、耳の聞こえない者、目の見えない者、主の道を歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった>と厳しく警告をして42章は終っています。それを踏まえて、<だが、今、ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主はこう言われる。>と43章1節前半へと続き(新共同訳聖書は冒頭の「だが、今、」を省いています)、<恐れるな>と語られていくのです。
●この「恐れるな」という言葉は、旧約聖書だけで60回以上も出てきます。しかもイザヤや誰か偉い人や力のある人が語っているのではなく、神が人間に向かって<恐れるな>と語っているのです。ですから、あなたがどんなことがあっても、どんな状況にあろうとも私はあなたを見ている、だからあなたに経済のこと、健康のこと、人間関係のこと、教育や就職など、どんなことがあろうとも、大丈夫だよ! と言うのです。それも、<あなたを創造した主、あなたを造った主>と繰り返しているように、あなたは私が造ったかけがえのない作品なのだ、だから大丈夫だ、と神は私たちに言われているのです。
 どうしてそんなことが言えるのか。どんなことがあっても大丈夫だとどうして言えるのか。その確かな根拠を、聖書は、①あなたは私のもの、②私はあなたを贖う、③私はあなたの名を呼ぶという、この3つをもって語っています。
❶<あなたは私のもの>とは、神は創造主であって、永遠も宇宙全体も、その中のすべてのものを造られたお方が、<あなたは私のもの>と言われます。あなたは神の愛の中で生かされており、独りぼっちじゃない。独りぼっちと感じたら振り向いたらいい。あなたの後ろに私がいると言われます。
 私自身、言い知れない孤独の中で、福岡の夜の街をさ迷っていて、ある教会の前を通ったら婦人の方が私をけげんそうに見たとき、「あ、ここは私のいる所じゃない」と思い、通り過ぎました。母教会に帰って年配の方から、「神は愛である」との御言葉を聞いた後、ひとり下宿の部屋で祈っていて、祈りの中で後ろを振り向いたら、何か温かいものに包まれました。これは私のささやかな経験です。皆それぞれが経験されていることだと思います。
 私たちは、弱さよりも強さを、不便よりも便利さを、小より大を、負けよりも勝ちを求めるなど、互いに比べる世の中で生活し、そのために一生懸命頑張って疲れ果て、孤独に陥っていきます。しかし、この中にあって神の言葉は、あなたが存在してること、生きていること自体に価値があり、かけがいのないものである、だから大丈夫、<あなたは私のものだ>として聞く言葉ではないかと思います。
❷<私はあなたを贖う>とは、あなたは私のものだということを、より一層鮮明にしてくれます。「贖う」とは「買い戻す」という意味です。小遣いをはたいて買ったリモコン飛行機を電波の届かない所まで飛ばしたため失ってしまい、がっくりしていたところが、何日か経っておもちゃ屋に飾ってあるのを見て、店の人に「それはボクの物だ」と言っても、その値段で買い戻さねば自分のものとなりません。
 神と私たちの関係で言えば、私たちの命を神がご自分の御子の十字架の死をもって買い戻してくださったということです。私が積み上げた膨大な罪によって、第二の死すなわち永遠の消滅という裁きを神から受けなければならないのに、神が自ら御子をもって代わりに裁かれて、死から永遠の命に生きる者としてくださった。それほどまでに神は、確実に私をご自分のものとしてくださった、これが買い戻すということです。
 このことを預言者エレミヤは、<私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。…私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない>(31:33~34)と語っています。キリストが代わりに罪を裁かれてくださったから、もう罪を問われることが無いと言うのです。私たちは、これからも罪を犯し続けることは避けられません。しかし、罪を犯したとき、そのことに気づかされ、そして、気づかされたとき、悔い改めへと導かれます。ですから、自分が罪を犯したと気づいたときには、神に自分の罪を正直に認めると同時に、罪を犯す度に「私は贖われている」と繰り返し唱えて、罪赦されていることを信じて神を見上げるとき、私たちはだんだんと強くなります。罪を犯していることにまず気づかされることがどんどん起こってきます。大きな罪ではなく、小さな小さな罪にも気づかされていきます。それは本当に大きな恵みだと思います。そして「私は贖われているのだ、罪赦されているのだ」と信じることが強まっていくときに、私たちは、神を見上げて新しく生きることができる。そのとき、気づかないうちに自分がそのように生きているようになり、自分では気づかないのですが、周りの人が気づいていくことになります。同じことを語り、同じことをしていても、何かが違うと感じていくのではないかと思います。私にはできないけれども、神がそうして下さると思うのです。
 ただし、罪を告白するのは神に対してです。人の前では、<アッバ、父よ、私の救い主であるイエス様。感謝します>であるべきです。
❸最後に<私はあなたの名を呼ぶ>ですが、「名」とは何の何兵衛という名前ではなくて、生命(いのち)そのもののことです。聖書が「あなたの名を呼ぶ」とは、意識とか無意識とかではなくて、一番肝心な真ん中の生命に関わることです。リンゴに例えれば、外側は意識、中身は無意識であって、真ん中の種の部分が、手の届かない、神が与えている生命(=私)そのものです。聖霊と一体であるその生命に神が触れることが<名を呼ぶ>ということなのです。
 昔、在日大韓小倉教会の崔昌華牧師が「1円訴訟」を起こしました。それは名前に関わる裁判です。北九州市庁舎で、在日韓国・朝鮮人の人権に関わる要求をしていたとき、取材していたNHKの記者に彼は、「私の名前はチェチャンファであって、サイショウカではない」と強く念を押して言われました。しかしその日の夕方のNHKニュースは「今日北九州市庁舎で、さいしょうか氏は…」と報道しました。それで裁判に踏み切りました。そして、「お金の単位は1円であり、人間の単位は名前である」ということで、賠償金を1円にしたのです。裁判は小倉地裁で負け、福岡高裁で負け、最高裁でも負けました。けれども全斗煥大統領が日本を訪問したとき(1984年)、NHKは突然「チョンドファン」と現地読みし、今ではすべて現地読みが当たり前になっています。その始まりが崔昌華牧師の1円訴訟(人格権訴訟、名前裁判)だったのです。裁判には負けましたが、実際は勝ったと言えます。この崔昌華牧師は、「一人が拳をあげたら必ず実現する」という人権に対する確信をもってその生涯を終えました。
●大丈夫だ、あなたは私のものだ、あなたは贖われている、私はあなたの名を呼ぶ、と語りかける神の言葉を聞くとき、自分が神の作品であることをあらためて自覚させられ、同時に、神がいつも共にある、インマヌエルの神であるということに気づかされます。自立と自由とは、決して孤立ではありません。私たちは互いに依存し合い、助け合って生きる存在です。しかし依存にも、我慢して、もたれ合い、寄りかかって依存する、マイナス依存もあります。それは自立していないために起こってくる依存ですが、本当にお互いに助け合い、依存し合うことは、一人ひとりが自立し独立した場合に起こってくるものです。これを相互依存といいます。ですから相互に依存し合うことに必要なのは本物の自立なのです。
●自己中心を罪といいますが、自己中心に陥った人類の最初の先輩アダムに対して神が問われたのは、<あなたはどこにいるのか?>でした。神中心ではなく自己中心に生きるとき、人は自分を失い、自立できません。しかし、自立心のないままに生きている私たちの所に、神はイエス・キリストとして来られました。キリストは、あのザアカイのところに客として来たとき、<私が来たのは、失われた者を捜し出して救うためである>(ルカ19:10)と言われました。このお方に出会うとき、私たちを本当に自立させて下さいます。このお方こそ主であることを信じ、告白し、感謝して歩みたいと思います。

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