2022年7月17日 聖書:フィリピの信徒への手紙3章10~11節 「待望して生きる」 川本良明牧師

●コロナウィルスの再拡大や元首相の暗殺など暗い出来事の一方で、先々週、韓国釜山の高校から授業参加の要請があって、オンラインで授業をしました。このように予想もしないことが起こりますが、どんな状況にあっても永遠に変わらない神の言葉を聴き、毎日の生活の中で御言葉が豊かな実を結んでいることと思います。この筑豊の地で、キリストの名によって建っている宮田教会の神から託されている使命とは何か、主に召されている私たちは、何を待望するのか、私たちの希望は何なのかを、今日の聖書の言葉から教えられたいと思います。もう一度お読みして(略)、この中から3つのことを教えられたいと思います。
❶<キリストの復活の力を知る>
◎「死は絶対であり、終わりである」というきびしい現実を和らげるために人類が生み出したのが宗教です。死は誰もが迎えます。だから意識してもしなくても、また運命や輪廻や宗教哲学や神話といった別の表現をしようとも、私たちは例外なく宗教のもとにあります。そして大切なことは、どの宗教も「肉体が死んでも魂は生きる」と教えていることです。この教えは、極楽や天国、煉獄や地獄などの世界まで描き出して、それが客観的な世界であるかのように信じ込ませています。その世界の描き方は宗教によって様々だし、その結ぶ実も良い悪いの違いはあっても、人間の創り出したものですから、ちょうど水の上を歩こうとして左の足が沈む前に右の足を水面に出しても沈むのと同じで、死の現実にはまったく無力です。
◎しかし、誰がこれから逃れることが出来るでしょうか。誰も出来ません。もしこれと違う教えをもつことが出来るとすれば、それは神の奇跡の力以外にありません。
 使徒パウロも、復活のイエスに出会うまでは同じでした。彼は宗教を、<造り主の代わりに造られたものを拝んで、これに仕えている>と語っています。そして宗教に頼ることを<肉に頼る>と言い換えて、3章4~6節で肉の思いに生きていたことを恥ずかしそうに述べた後、一転、7節以下で、<主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴しさに、これまで得と思っていたすべてのものを塵芥とみなしています>と力強く語っています。
◎パウロにとってキリストの復活は、真理そのものでした。真理とは、どんなことがあっても揺るぎない、絶対不動のものという意味です。だから本物の力がここにあるのです。もしも1+1=3に基づけば混乱しますが、1+1=2に基づけば物事は正しく整えられます。真理に基づいて建物は建ち、パソコンは動き、飛行機やロケットも飛んでいます。<キリストの復活という真理を知る>とは、私たちの罪の贖いと体のよみがえり、永遠の生命、神の国の住民登録が、すべて確実で揺るぎないものであり、私たちはその力によって生かされているということです。
❷<キリストの苦しみにあずかる>
◎コリントの教会は、党派争いや不品行など様々な問題が渦巻いていました。人々はキリストの復活は信じていました。しかし神が彼を復活させたのは、私たちの代わりに罪を裁かれ、罪の贖いの死を遂げたからです。十字架の死のない復活信仰は、カーニバルです。それでパウロは、十字架の信仰に欠けるコリントの教会に、キリストの苦しみにあずかるように勧めました。しかしフィリピの教会には、<その苦しみにあずかり、その死の姿にあやかりながら、死者の復活に達したい>と語ります。「あやかる」とは、同じ姿になることです。ちょうど弟子が師匠をまねるということです。師匠のようになるには、自分の物差しを捨てねばなりません。
 キリストの死の姿とは、十字架の死です。その死を考えるときは、まず自分のもっている基準を捨てる必要があります。キリストの十字架の死は、無意味で、無力で、あわれで、情けない、恥ずべき姿でした。「世の罪を背負った姿」などの意味づけなどありません。それがイエスの死でした。その意味は神しか知りません。その神から示されるとき、初めて私たちも「あの十字架の死は、私のための、私が許される、私が救われるための死だった」と分かるのです。
◎ですから、イエスを信じている私たちは、自分の身に起こる苦しみの意味を判断する物差しを取り払い、イエスへの信仰によって意味を問うとき、降りかかってくる苦しみが信仰の戦いの苦しみであることを示されます。つまり、この歳になると、これまでに自分が犯した罪、人を傷つけてきたこと、取り返しのつかない、数多くの、人には言えない、墓場までもっていかなければならない罪、そうした山と積まれた罪のガラクタが、突然思い出され、私を襲ってきます。その気づきと苦しみ、それこそが「キリストの苦しみにあずかる」ということなのです。
 パウロはフィリピ1章29節で、<あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている>と語り、キリストのために苦しむことは、恵みであると語っています。
 瞬きの詩人といわれる水野源三さんは、9才のとき赤痢で高熱に冒され、耳と目以外はまったく機能不全となりました。つまり彼はそのとき死んだのです。彼は、ある牧師に導かれて洗礼を受けました。そして母親が50音の文字表を指さして、彼が瞬きをした文字を書き取って詩を作ったので、瞬きの詩人と呼ばれました。その彼がイエスについて、「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主なるイエス様が苦しまなかったら、神様の愛は現れなかった」と綴っています。
❸<死者の中からの復活に達する>
 キリストの復活の力を知り、キリストの苦しみにあずかることによって、私たちが向かう人生の目標、それが、<死者の中からの復活に達する>ことです。パウロは、<キリストの死にあやかりながら>と語っていますが、これについて彼はローマ6章5節で、<もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう>と語っています。
 それは死後の約束として、キリストの復活の姿にあやかることになるのですが、大切なのは、今、です。パウロは、<イエスの死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。>と現在形で語っています。たしかな死後の復活と永遠の命の約束だからこそ、今を復活に生き、今を神の国を生きることが出来るのです。つまり悪と罪が支配している現実の中で、キリストの香りのする人間に変えられることが約束されています。その約束を待望して生きるとき、その約束は実現されるのです。
●しかし、私たちは何を待望するのでしょうか。
◎もうこんな歳になり、足も弱く、目もかすみ、耳も遠くなり、もう先は短かい。病院のお世話にもなるだろう、施設に入ることになるだろう、施設にも高い安いがある、どんな施設に入れるだろうか、その後に待っているのは棺桶……。まだ起こってもいない先のことを待望しています。望んでいる事柄を確信する。それがあなたの信仰ならば、神は愛です。あなたの信仰を実現されるでしょう。
 パウロは、神に逆らう異邦人に対して、「神は…するにまかせられた」と繰り返し語り、<不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます>(ローマ1:18)と語っています。しかし同時に教会とクリスチャンに対しても、<すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは他人を裁きながら、じつは、自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて同じことをしているからです>と語っています。
◎しかし、真理の働きはそうではありません。パウロと同じく私たちも、<何とかして死者の中からの復活に達したい>と願いながら、すでに今を復活に生きることを経験しているのではないでしょうか。先ほどの水野源三さんが、イエスの復活を知り、人生の本物に出会ったとき、どれほど歓喜あふれる希望を与えられただろうかと思います。というのはイエスの復活は、単に魂の復活ではありません。「肉体は死んでも魂は生きる」というのは、一般の宗教の教えです。イエス・キリストにおいて示された人間の復活は、「からだの復活」だからです。
◎死者の中からの復活に、今、あずかるということは、聖霊の働きに身をゆだねるということです。イエスは復活して天に昇られるとき、弟子たちに「私はあなたがたに助け主を送る。それがあなたがたの内に住んで、あなたがたを決して孤児にはしない。」と約束されました。そしてまもなく聖霊を降されました。ですから、今、死者の中からの復活にあずかっているということは、聖霊として私たちの内に住んでおられるイエスの復活の力をもって、私たち一人ひとりが聖霊の実を結ぶことがなされているということです。
 イエスを信じて、自分の物差しを捨てるとき、キリストご自身があなたの中に住まわれて、ガラテヤ5章22節にある愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実を結ばせられます。そして、あなたを通して周りの人にご自分を証しされることが起こります。そのことを信じ、心から感謝して、これからの一週間を歩みたいと思います。

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