2022年8月21日  聖書:コロサイの信徒への手紙 2章11~12節 「復活の力を信じて生きる」  川本良明牧師

 宮田教会は1948年に服部団次郎牧師によって始められ、毎年8月に創立記念コンサートを行なっています。そこで、教会の始まりと目標は何か、今日の御言葉からその示唆を得たいと思います。
 まず11節の、<キリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、>は分かりにくい言葉ですが、たいへん重要なことが語られています。
 割礼とは、男の子の包皮を刃物で切り取ることで、生まれて8日目に行なわれます。ユダヤ民族にとって割礼は、アブラハムが99才の時に神から命じられて行なったことに始まり、割礼を受けていない者は子孫ではないというきびしい掟を示されました。コロサイの手紙の著者パウロは、この「手による割礼」を意識して「手によらない割礼」と表現しているわけです。
 ユダヤ民族の存在に関わる決定的に重要なことが、2つあります。1つは割礼を受けること、もう1つは律法を守ることです。律法は神から授けられた十戒を基本とする掟で、<私をおいてほかに神があってはならない>という第一戒を見ても分かるように、世界のどの民族も持っていないものです。だから割礼を受け、律法を実行することは、神の祝福を受けて生きる証しであり、その最大の祝福は、彼らの子孫からメシアが誕生することでした。だから男子に割礼を施すことは、親の絶対の責任であり義務でもあり、また喜びでもありました。
 しかし、彼らは割礼は守り続けましたが、律法は破り続けました。そのため神の徹底的な裁きが起こりました。パウロは、<あなたは割礼を受けていても律法を破っている。だから割礼を受けていないのと同じです>と痛烈に批判しました。そして、<割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けた者と見なされます。だから異邦人キリスト者には、聖霊によって心に割礼を施され、その心に律法の要求する事柄が記されています>とローマ書2章で語っています。
 ですから、<手によらない割礼、つまりキリストの割礼>とは、聖霊によって心に施された割礼のことであることが分かります。また<律法によっては罪の自覚しか生じない>(ローマ3:20)と語っています。だから、<肉の体を脱ぎ捨てる>とは、罪の体から解放されるという意味なのです。つまり11節でパウロは、ユダヤ人をはじめすべての人は罪のもとにあり、全世界が神の裁きに服さねばならない、ところがキリストがすべての人の代わりに神に裁かれて下さったので、この方を信じるならば、心に聖霊による割礼を受けることになる、と語っているのです。
 ユダヤ民族は、自分たちの子孫からメシアが誕生するという希望を抱いて割礼を守ってきましたが、キリストが現れた今は守る必要はなくなったのですが、イエスをメシアと信じていないユダヤ人たちは、今も割礼を守り続けています。
 ところがこの問題は、教会に重要な課題を突きつけています。それは幼児洗礼のことです。親が誕生してまもない子供に受洗させるというもので、教会が洗礼を割礼と同じように考えて制度化してきたものです。親の願いから幼児が洗礼を施されることによって、人は自動的にキリスト者共同体の一員になることを意味します。そこで教会は、肉親の親子・兄弟・夫婦・親族などの間にあるエロースの愛でおおわれて、この世の物差しで互いを見、判断する世俗社会となりました。
 弱いよりも強い、遅いよりも速い、低いよりも高いなどを求めるのは、成長する上で必要であり、決して悪いことではありません。しかしこれが教会の中で適用されると、信仰の弱い人よりも強い人、体の弱い人よりも強い人、のろまよりもてきぱきとして回転の速い頭のいい人などが優先する共同体になっていき、霊的な賜物によるアガペーの愛をもって愛し合う世界ではなくなります。パウロは、<兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。>などを勧めていますが、世俗化されてしまった教会でいくらこれが語られてもむなしいばかりです。
 そして、何の自覚もない赤ん坊に洗礼を授けるという幼児洗礼と同じことは、重度の知的しょうがい者の受洗に関する事柄についても言えると思います。
 つぎに12節で、洗礼のことが語られています。洗礼は、授ける側も受ける側もどちらにもイエス・キリストの自由な業が働いています。イエスは、ヨルダン川でヨハネから水の洗礼を受けられました。やがて十字架に向かって行くとき、<私には受けねばならない洗礼がある>と弟子に言われ、十字架で死なれました。すなわち教会は、イエスの洗礼を根拠にして水の洗礼を行なっていますが、じつは水の洗礼に至るまでには聖霊の導きがあるわけです。
 洗礼によって人は、聖霊の力において、イエス・キリストの死と復活にあずかることを体験します。死と復活にあずかるのは同時であって切り離せないのですが、聖書はそのことをあえて2つに分け、まず「洗礼によって、キリストと共に葬られる」と書いています。それはキリストの死にあずかるということです。
 ユダヤ人も異邦人も皆、神の良き作品でありながら、罪のために役立たずになりました。<欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む>とあるように、自己中心という心の欲望によって罪を生み、死を招いている私たちは、枯れ枝のように集められて燃やされ、永遠に捨てられる者となっています。
 まさに魂は末期ガンの状態です。死んだらガンもなくなります。しかしガンはなくなっても自分は生きたい。ではどうすればいいのか。どうすることも出来ない。このような私たちのためにキリストが代わりに死んで下さいました。キリストが十字架において死ぬことによって、すべての人に対する神の裁きが執行されました。このことを信じて、自分が罪人であることを認め、悔い改めて洗礼を受けるとき、キリストと共に死んで葬られることが起こり、これまでの物差しが燃え尽きてしまうのです。
 古い物差しについてパウロは、1:21節以下、2:20節以下、3:7節以下で繰り返し語っています。ではそれが燃え尽きたらどうなるのか。3:12節で、<あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。>と勧めています。私には出来ないが、私の代わりに死んで下さったイエスの神はお出来になると言っているのです。
 つぎに「(洗礼によって)キリストと共に復活させられる」と書いています。洗礼を受けたとき、聖霊の力によってキリストと共に死に、この世の物差しは燃やされ、ガンがなくなって魂は生き返り、神の作品としての新しい生活が始まります。エロースの愛ではなく、アガペーの愛に生きる生活が始まるのです。
 教会は神の言葉(イエス・キリスト、聖書、説教)により、聖霊の自由な選びと召命を通して集められた人びとの集まりです。だから親子、家族、氏族、部族といった血縁で成立する民族共同体ではありません。ただしユダヤ人は、神から律法を与えられて、その子孫からメシアが生まれるという使命を果たすために割礼を守り続けた特別な民族でした。しかし救い主が現われてその使命は終わったのです。洗礼による共同体である教会は、ユダヤ人も異邦人も同時に集められる共同体であって民族ではないのです。だからパウロが、11節と12節で割礼と洗礼をはっきりと対置しているのはそのためなのです。
 もちろんキリスト信者も父母を持ち、家族、民族の一員です。しかしその中の誰かが信仰を持ち、神の子供として生きるのを、両親も家族も造り出すことはできません。ただ神に訴えて、「この子が洗礼を受けて、神の御用のために一緒に歩んでいく喜びにあずからせて下さい」と祈って待つ以外にないのです。だから断言しますが、幼児洗礼などあり得ないのです。
 ユダヤ民族は、自分たちの祖先はアブラハムであると信じ、そのアブラハムを選んだ天地創造の神こそ民族の始まりと理解しました。だから自分たちの存在は、神に由来していると信じています。この点では、教会も同じです。教会も天地創造の神がイエス・キリストとしてこられ、罪を贖い、信じる者すべてに救いをもたらす福音を宣べ伝えるために人びとを呼び集め、教会を建ててその使命を果たすように聖霊の力を持って、今も働いておられます。だから教会も神によって存在していると信じています。しかし、ユダヤ民族は、自分たちの始まりはアブラハムであるとして、過去に目を向けていますが、教会は、十字架に死んで甦えったイエス・キリストが、再び来られてすべてを完成させると信じ、すべての歴史の目標に目を向けています。この点でユダヤ民族と教会は決定的にちがいます。
 神は、服部団次郎牧師を筑豊(筑前の国と豊前の国の境目に当たる)の地に遣わされて、炭鉱労働に従事しながら、炭鉱で働く人びととともに聖書を読み、神の愛と人間としての尊厳と喜びを伝える教会を建てられました。それが宮田教会の始まりで、1948年以来歩んできました。過去を考えることは大事なことですが、復活が過去のことではないのと同じように、キリストの復活の力にあずかった私たちは、終わりの日の完成に目を向けて生きることが許されています。
 しかも復活は、罪の許しを内容としています。教会を迫害していたパウロが復活のイエスから、<サウル、サウル、なぜ私を苦しめるのか>と言われたとき、彼は愕然としました。神のために尽くしていると信じていたのに、その神からそのように言われたからです。彼は自分の罪の深さに打ちのめされ、三日三晩飲まず食わず苦しみました。ところがアナニアが彼に神の言葉を伝えたとき、罪が赦されていることを知り、使徒として立ち上がりました。ペトロも、「先生の後にどこまでもついて行きます」と言いながら3回も裏切って、己れの弱さに打ちのめされ、復活したイエスに目を上げられませんでした。その彼に、<ペトロ、私を愛するか>と3回も問われたとき、自分が根本から許されていることを知って立ち直ったのでした。このようにイエスの復活に生きるということは、罪のゆるしに生きるということでもあるわけです。
 またポンテオ・ピラトの同時代人がイエスではなくて、イエスと同時代人がポンテオ・ピラトなのです。このことは教会についても私たちについても同じです。なぜなら、聖霊においてイエスは働いておられると信じるからです。今ここで働いておられるイエスと同時代人が私たちなのです。そのことを信じて、教会と共に生きた信仰の先達たちと共に終わりの日に向かって歩みたいと思います。

聖書のお話