2022年8月28日 聖書:ローマの信徒への手紙8章1~8節「自由に生きる パートⅡ」大薮善次郎牧師 

 ルカは福音書と使徒行伝を書いた。それによると、パウロとバルナバとは意見の違いから別々に行動することになる。(使徒行伝15章)その時マルコと呼ばれていた信徒がバルナバと行動共にする。
 このマルコが、マルコ福音書を書いた。そこでは、パウロの言う聖霊による信仰とは異なる主張が語られている。マルコはイエスのことを母親から聞かされ、彼自身も子どもの頃イエスに出会っていたであろう。 
 マルコが書いたイエスは、涙を流し、悲しんだり、怒ったりする人間である。いつも隣人と共に生きているイエスである。しかし、イエスの弟子たちは、それを理解しない。自分の欲望に捕らわれている。
 そこでは、神の子というイメージが出てこないのである。田川建三氏のマルコ伝には、「イエス・キリストの福音のはじめ」である。口語訳や、その他の日本語の訳は、冒頭に「神の子」がついている。これは、おかしいと言わざるを得ない。
 イエスの人生は神々しい神ではなく、徹底的に苦しみの中にある人間として歩まれたのだ。そのイエスに従うとは、いつも暗い気持ちで悩みながら信仰生活をしていかなければならないのだろか。
 否である。私の84年の人生で最近イエスを信じて良かったとつくづく思うのである。これは信仰の喜びである。心の底から感謝の気持ちが沸き上がる。自然と笑いが出てる。
 霊というものは、神から出てくるものだ。人間の言葉で説明できるものではない。霊は全き自由なものだ。しかし、それは神に喜ばれるものでなければならない。つまり隣人と共に受けていくものなのだ。
 椎名麟三は「道化師の孤独」というエッセイの中で、「聖書にイエスが笑ったという記事が一行もない。だから私は何とかして、イエスを笑わせてあげたいと思う。イエスが笑って下さっていらっしゃったら…」と書いている。
 自由には笑いがある。聖書にはないけれど、人となられたイエスである。ザアカイと共に大いに笑ったと私は信じている。

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