2022年9月4日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「愛に生きる」川本良明牧師

●今は実りの秋で、店にはブドウや梨やイチジクなどがいっせいに並んでいます。今関わっている最重度しょうがい者施設ぴのきおでも、住人たちが自分たちの畑で育てたスイカを収穫して、皆で喜んで食べ合ったとお聞きしました。最近そこの住人の一人となったI・Tさんをお連れしましたので紹介します。またベトナム人実習生2人の方が初めて見えてますし、久しぶりにMさんが来られています。
●このように私たちは、本当の交わりを求めて教会に来ているのですが、今日の聖書の個所は、神が私たちに与えて下さる交わりとして、霊の結ぶ実を9つ紹介しています。<これに対して、霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。>とある「これに対して」とは、その手前に書いている姦淫やねたみや争いなどを内容とした「肉の業」のことです。霊の実と肉の業とはどういうことか。あるときイエスがたとえ話を話されました。<私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできない>。イエスにつながっているとは、イエスを信じ、イエスに信頼し、イエスに身をゆだねるということです。ではイエスから離れているとはどういうことか。
●ある学校に県の役人が来て、授業を参観しました。教室に地球儀があったので、授業の合間にその役人が生徒に尋ねました。「君、どうして地球の地軸は傾いていると思うかい?」。すると生徒はサッと立ち上がって言いました。「ボクがしたんじゃありません!」。おどろいた役人は教師に同じことを尋ねると、彼はきっぱりと言いました。「初めからそうなっていました!」。役人は校長室に行ってその話をすると、あわてた校長はすぐに事務長を呼んで言いました。「だからあの会社から購入するなと言ったじゃないか」。
◎これは笑い話ではありますが、このように私たちは、人から何か言われると、反射的にマイナスに反応し、命令形で聞いてしまいます。それは私たちの内に自分の罪を責める物差しがあるからです。この物差しは、聖書が語っている呪いの律法に由来していますが、神ではなく人を恐れるかぎり、私たちはそれから逃れることはできません。神を畏れず人を恐れることがイエスを離れることなのです。
◎しかし、人ではなく神を見上げること、それがイエスにつながるということです。私たちは、人の言葉を気にし、人を恐れがちですが、そのたびにハッと気づいて、神を思い、上を見上げていくことです。それが習慣になると、人を恐れず、しかも謙遜に対応することが出来るようになります。
●<私はぶどうの木、あなたがたはその枝。私につながっていれば、豊かに実を結ぶ>と言われる「豊かな実」が霊の実なのです。その霊の実の中で最初の実として上げているのが愛です。ドラマでも小説でも愛ほどテーマになるものはありません。このガラテヤの信徒への手紙の著者であるパウロは、コリントの信徒への第一の手紙で、愛について詳しく書いています。その13章で、山を動かす信仰があっても全財産を投げ出す慈善や殉教する熱情があっても、愛がなければ無に等しい、愛こそ神が与える最高の賜物であると語った後、4節から、「愛は忍耐強い、愛は情け深い…」など「愛の賛歌」と言われる15の愛の内容を述べています。
◎「愛は忍耐強い」とは「人から嫌な思いをさせられてもあえて仕返しをしない」という意味ですが、私は人から嫌な目に遭うといつも「いつやっちゃろか」と思ってしまいます。私は背が低く小さかったのでその傾向は強かったです。「愛は情け深い」とは、「すべての人に優しくする」という意味ですが、私は自分に親切な人や賛成する人には親切ですが、反対したり冷たい人には、その人に負けないくらい冷たくなります。「高ぶらない」とは、「人にしてもらったことはいつまでも覚え、人にしてあげたことはすぐに忘れる」という意味ですが、私は人にしてあげたことはいつまでも覚えていて、人にしてもらったことはすぐに忘れてしまいます。「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」とは、「人の悪いことを見つけて喜び、けなし、人の良いことを見ようとせずに悪いことばかりを見ることをしない」という意味です。この15のことをどれか一つでも実践できますか? 誰一人できないと思うのですがどうでしょう。イエスの勧めはもっとすごい。<敵を愛し、迫害する者のために祈れ>ですから。私は若いとき、これを実践しようとして失敗した苦い経験があります。そのおかげで教会の門を叩き、洗礼を受けたのですが。
●実は、この「愛」という言葉をキリストに置き換えて読むことが大切です。私たちは愛さえも、「愛さねばならない」という義務や命令として聞いてしまいます。先ほどの地球儀の話を思い出してください。これは、自分を許していない、自分を責めている、許せば罰が待っているという恐れがあるからですが、さらにその最も深いところには、自分は神から許されていない、つまり神と和解していないということがあるからなのです。
●<初めに、神は天地を創造された>とあるように、本来私たちは神に造られた作品です。それも神が創造されたとき、被造物に対して1つ1つ「良い」と言われ、人間に対しては、「はなはだ良い」と言われました。ところが私たちは神に無関心で、好き勝手に生きているので、神の怒りを自分のために蓄えています。だから必ずやこの怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れてきます。
◎いったいいつ神の怒りが爆発し、正しい裁きが行なわれたのでしょうか。神はご自分の愛する御子イエス・キリストを十字架にかけて、その十字架の御子に対して怒りを爆発させて、私たちの罪に対する裁きを執行されました。これがキリストの十字架の死なのです。ですから私たちは、このキリストを知って、キリストを受け入れて、その血と体にあずかるとき、つまりキリストを信じるとき、キリストは私たちの内に聖霊として親しく臨んでくださるのです。その時、自分は罪が許されている、もう自分を責める必要はないと知るのです。その罪の赦しを知ったとき、私たちの内に何が起こるのでしょうか。
●渥美清と倍賞美津子が出る『男は愛嬌』と『女は度胸』という映画があります。戦争が終わって復員した渥美さんは、仕事がないので、田舎に行って米、小豆、麦などを稼いできては、駅前の闇市に売って商売する闇屋をしていました。そのうちに駅前の1杯飲み屋をやっている倍賞さんと親しくなり、だんだんと思いが募って来て、あるとき、「じつは君に話があるんだ。俺と所帯もたねえか」と渥美さんが切り出しました。すると、「ちょっと待ってよ、お店ん中でそんな話するのはダメじゃないの。外に出ましょ」と言って、ふたりは店を出ました。夕暮れの薄暗い電信柱の陰で彼女が、「あんた何にも知らないでしょ。私もね、戦争が終わった後、本当に貧乏で、ひもじくってひもじくって、仕方なしに何年間かアメリカ兵を相手にしたのよ。その後もある男といっしょになって、子どもが産まれて、今、田舎のおっ母さんにその子をあずけて、この商売してんのよ。あんた、何も知らないでしょ。こんな女でもあんたは本当にいいの?」って言うんですね。そしたら渥美さんが、ちょっと、こう、テレながら、「うん、なあ、だけど家庭ってのはよう、未来について語るところじゃねえのか?」って、すごい言葉を吐くんです。「家庭ってのはよう、未来について語るとこじゃねえのか」。その一言で、その一言で、彼女は、ぱらーっと涙をこぼすんです。その一言でもって、彼女の、それこそもうメチャクチャな人生、それこそ屈辱と飢え、辱められた、その人生のすべてが、覆われ、包まれ、赦され、水に流されていくわけです。
●イエスにお会いするとき私たちは、肉の業の中にあるありのままの自分の全部がさらけ出されます。しかし同時に、神の愛に覆われ、包まれ、罪が赦され、拭い去られてしまうことも起こるのです。そして、「愛さねばならない」ではなく、「愛するであろう、愛さずにはおれない、愛する者に成るよ」という福音としての愛が開かれてきて、このような愛に生きる人間に変えてくださるのです。これがイエスの力であり、イエスの働きであり、聖霊の働きなのです。
◎ただし、これがいつ起こるのかは、人によってまちまちです。やっぱりオレはだめだ、人をねたんでしまう、マイナスに考えてしまうことなどが起こるのが私たちの現実ではないでしょうか。ところがもう一度先ほどお読みしたⅠコリント13章の「愛の賛歌」を見ると、<愛は忍耐強い。愛は情け深い>の2つは肯定文です。しかしそれからは、<愛は嫉まない。自慢しない、高ぶらない>など否定文になっています。これはどういうことか。それは、私たちは相変わらず、嫉み、自慢し、高ぶるんです。しかしそれでいいんだよ、しかし愛は嫉まない、自慢しない、高ぶらないんだよ、と語っているのです。
◎つまり進んでは後退し、進んでは後退するということです。「ああ、またやっちゃった」というときに、ハッと気づいて神を思い、上を仰いで、「聖霊さま、すみません。またやりました、助けてください」と悔い改め、祈ることを繰り返すのです。そのとき、<求めよ、そうすれば与えられる。人にはできない、けれども神には何でもできる>という言葉が与えられます。自分で頑張るのではなく、神に求めるのです。忍耐強くなろうとか嫉むことをすまいとか、自分で頑張るのではなくて、そういう自分であることを認めて、「そういう人間です。しかしあなたは十字架の死において、私たちのすべての罪を贖ってくださったことを信じています。どうぞ助けてください。」と絶えず祈りながら進んでいくときに、少し下がっては前へ、少し下がっては大きく前へ進んでいくことで、神が造り変えてくださる、これが私たちに対する大きな約束です。大切なことは、イエスを信じていくときに、私たちの中に愛の戒めが、おのずから、気がつかないうちに、実現されていくのです。目標はキリストの似姿に変えられていくということです。このすばらしい約束が与えられていることを共に感謝して、新しい一週間を共に歩んでいきたいと思います。

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