2022年9月18日 聖書:マルコ による福音書4章:21~25節 「神は愛である」 川本良明牧師

◎前回は「愛に生きる」と題して人間を焦点にしました。人は皆、神を憎み、不和なために、自分を愛せず、責め、否定的に考え、人の言葉を気にし、恐れ、偽物の知識に振り回され、頑なで心を改めることも変わることもできないでいます。そういう私たちが、自分を赦し、肯定的に考え、人を恐れず、愛に生きる者に変われるのは、愛の神に出会うときです。<私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛して下さったからです>(Ⅰヨハネ4:19)とあるとおりです。
◎そこで今日は「神は愛である」と題して神に焦点を当てます。しかし「神」という言葉は世界に溢れています。使徒パウロは、<自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、造り主の代わりに造られたものを拝んでこれに仕えている>と指摘しています。この「造られたもの」の中には、じつに高度で深い教えをもつものもあります。だから偽物の神に惑わされないことが大切です。だから今、イエス・キリストにおいて現れた神こそ本物の神であることを知り、信じ、主であると告白し、人生を賭けたいと思います。<イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、私たちは愛を知りました>(Ⅰヨハネ3:16)とあり、またイエス自身、<私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる>と語っているからです。本物の神は愛なのです。
◎ところが「神」と同じように「愛」についても世界に溢れています。神の愛に応えるのに自分の愛で応えるのは当然ですが、自分の愛を神の愛に当てはめて、それを神の愛であるとするならば、それは偽物の愛です。だから自分の物差しを捨てて、イエスの言葉を通して示された本物の神の愛を知り、その愛に応える愛を祈り求めることが大切です。
◎イエスは、誰もが分かる言葉で深い真理を語るお方です。<ともし火を持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない>という言葉は、まさに私たちの現実の姿を突いています。オリンピックの裏で収賄があり、隔離された施設の中で外国人を殺したり、しょうがい者を虐待しています。それらは氷山の一角であって、理不尽なことが無数にあり、しかも巧妙に闇に葬られています。ところがイエスは、それらが隠されたまま秘められたままではなく、必ず白日の下に曝されると言われるのです。先ほど司会者が「終わりの日に完全にあらわにされる」と祈られましたが、その一部分を私たちはいつも目にしているわけです。
◎神は既に預言者イザヤを通して、「大地はそこに流された血をあらわにし、殺された者をもはや隠そうとしない」(26:21)と語り、また弟アベルを殺したカインに、<お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる>(創世記4:10)と語っています。すべてのことは永遠の神の眼の前にあり、憶えられているのです。この永遠の神が人間イエスとなって、<隠れているもの、秘められたものは、必ずあらわになる>と語っています。イエスはご自分の存在を賭けて語っています。というのは、この言葉は彼自身のことを言っているからです。
◎私たちは、キリスト教はよく知られていると当然のように思っていますが、二千年前の当時、イエスは世界の小さな片隅で殺されました。彼の死は、まったく無意味で、忘れられ、闇に葬り去られるような出来事でした。しかしこの出来事が、今や全世界に告げ知らされているのは、神が行なった愛の出来事だからです。それは、彼を信じる者が皆救いにあずかることができる神の力を秘めており、どんな罪も悪も偽りの力も妨げることができません。イエスの十字架の死は、世の罪悪のすべてが凝縮された出来事でした。それまで眠っていた悪魔は、神の子イエスが現れたとき目覚め、何が何でも妨げようとしました。しかし、イエスの愛の業を妨げるどころか、悪魔は十字架において裁かれました。私たちのすべての悪、罪、偽りが、神の愛の出来事において容赦なく裁かれたのです。
◎私たちは、はなはだ良い作品として神に造られているのに、神に無関心で、自己中心に生きています。これを聖書は罪といいますが、罪のもとで好き勝手に生きている私たちは、神の作品どころか役立たずのガラクタで、火に焼かれて永遠に捨てられるものとなっています。つまり神の怒りを自分の身に積み重ねているのです。だから必ずやこの怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れてきます。宗教の中には、永遠の地獄を描いているものもありますが、地獄の中でも魂は生きているわけですから、そんな地獄は神の怒りとは全く関係ありません。なぜなら神の裁きは、肉体も魂も火で燃やされて跡形もなくなり、無となって捨てられることだからです。ところが神は、愛する御子イエス・キリストを十字架にかけて、その御子に対して怒りを爆発させて、私たちの罪に対する裁きを執行されました。これがキリスト・イエスの十字架の死なのです。
◎ここで十字架と死をそれぞれ考えてみます。イエスがかけられた十字架は、確かにローマ帝国に逆らった者に対する処刑ですが、聖書はローマ式の処刑を用いて、申命記21章23節にある<木にかけられた者は、神に呪われたものである>という律法に従って、神がイエスに対して執行した処刑なのです。イエスは、神に背き、神を憎んで罪に生き、呪われた存在となっている私たちの身代わりとなって、神に裁かれました。これがイエス・キリストの十字架なのです。
◎この十字架による裁きの執行によって、イエスは死にました。イエスの死とは、彼が罪を償う供え物として献げられ、罪に対する裁きが終わり、罪は完全に贖われた出来事なのです。だからイエス・キリストの十字架と死は、神の裁きと神の愛が同時に示された出来事なのです。そして、このイエス・キリストを信じる者には、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと皆、永遠の命を与えるということを宣言するために、神はイエスを復活されたのです。
◎イエスの十字架の死によって示された神の愛は、裁きと一体となった愛なのです。ですから神の愛に出会うとき、人は皆、自分の奥深くにある隠され、秘められた罪をあらわにされますが、同時に罪の赦しが起こるのです。この愛の神に出会ったとき、私たちに何が起こるのでしょうか。そのことで思い出すのは、日本キリスト教団部落解放センターの創始者今井数一さんのことです。
◯被差別部落出身の彼は、厳しい差別の下で言語を絶する苦しみと悲しみの中で、「なぜこんな苦しみにあわねばならないのか!」と叫び続けました。しかし、いくら叫んでも、ぶつかっても、傷つくのは自分であり、空しい声しか返ってこない厚い壁の中で、世を恨み、人を恨み、神仏を恨み、自分自身を恨んで生きてきました。その彼と刑務所で出会った関田寅之助牧師は、彼から、「神がいるなら、なぜ俺はこんな目にあわねばならないのか。」と迫られたとき、どうしていいか分からず、ただ祈って求めたときに示されたのがイザヤ書2章22節の言葉でした。<人間に頼るのをやめよ 鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか>。この言葉を聞いたとき今井さんは、一瞬呆然となり、言葉を失った、と後に述懐しています。「人間に頼ることをやめよ」とは人間に対する絶望です。この言葉は、この世界の中だけを見て生きてきた彼に、彼の物差し、それまでのものの見方、生活の流れを断ち切るものとして迫ってきたのです。そして十字架の上で、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ぶイエスの叫びが、自分のために、自分に代わって叫んだ主の叫びであることを知ったとき、彼は、十字架のキリストにおける希望へと向きを変えていきました。そして信仰の道に入り、受洗し、教会員に失望することはあっても教会に失望することはなく、被差別部落出身の自分自身と真剣に向きあい、キリスト者として、部落解放に生涯を捧げることになったのです。
◎今井さんのことを思うとき、私たちは、イエスを十字架にかけるほどに真剣に神の言葉を求めているのだろうかと教えられます。ユダヤの格言に、「もしも時代があなたにへつらうならば、その時代を信じてはならない」という言葉があります。苦難のユダヤ民族であればこそすごい格言だと思います。つまり真剣に「イエスを十字架につけろ」と迫っていくほどに神の言葉に迫っているだろうか。マザー・テレサはすばらしい、中村哲さんはすばらしいという言葉をよく聞きますが、むしろ彼らの背後におられて、彼らを育て、導かれたお方である主に目を向けることが大事なのです。その主なる神に目を向けるとき、彼らを育て導き用いられた神は、あなたを導き、育て、あなたに期待しておられるのです。
◎「神は愛である」ことを正しく知ることが前提になければ、愛に生きることはできないと言いましたが、愛の神に応えようとしても私たちはどうしても、「愛さなければならない」という言葉に持って行かれてしまいます。だから私たちは、愛さねばならないと自分で頑張るのではなくて、愛せない自分であることを認めて、神がイエス・キリストにおいて、裁きと愛を同時に成し遂げて下さった神の愛を信じて神に祈り求めることです。このイエスを信じるとき、私たちの中に本物の愛の戒めが、おのずから育てられ、実っていくのです。このことが起こったとき、本当の伝道がなされていきます。つまり私たちが気がつかないうちに変えられるのと同じように周りの人たちも変えられていく、あなたが変えるのではない、あなたの内におられるお方が周りの人を変えていくのです。今日のイエスの次の言葉、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人はさらに与えられる。」は約束の言葉です。今井さんがそうであったように、神の愛に愛をもって応える者に変えられていくとき、イエスの約束どおり、愛がますます豊かに実を結んでいくことを感謝したいと思います。

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