2022年10月2日 聖書:ガラテヤ信徒の手紙5章22~23節 「喜びに生きる」 川本良明牧師

◎これからガラテヤ5:22~23にある聖霊の実を1つずつ取り上げていきます。この際、ここに書かれている9つの聖霊の実が結ばれることを祈り求め、自分の血となり肉となるならば、生活の中で起こるいろんな波風の中にあっても本当の平安が与えられることになります。聖霊の実は、他にも忍耐や信仰、真実、練達、謙遜、希望など数多く聖書に書かれています。これら1つ1つを9つに加えていくことで、さらに聖霊の実が豊かに結ばれることになります。
◎この「聖霊の実」に対して「肉の業」が書かれていて、2つは明確に区別されていますが、どちらも人間の中に生じるものです。聖霊の実は神の働きであり、私たちが生み出すことはできません。肉の業は人間の働きであり、私たちが生み出すものですが、それは罪によって生じるもので、19節にその内容が列記されています。ここで大切なことは17節の言葉です。<肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは肉に反する。>とあり、真理の反対は偽物で、両者は相いれないものですが、両者を仲良く交ぜ合わせて考える時には、<肉と霊とが対立し合っているので、自分のしたいと思うことができなくなる>と記しています。
◯イスラエルの民が犯した罪もそういう罪でした。本物の神ヤハウェと偽物の神バアルは相いれないものなのに並べて拝んでいたわけです。「偶像崇拝に陥った」とは、バアルを信じてヤハウェを斥けたのではなく、ヤハウェを崇めながら同時にバアルを崇めたということです。本物と偽物のことは、今日の歴史修正主義でも見られます。「事実か事実でないか」の論争ではなくて、あれもあればこれもあると語りながら事実そのものを否定するというものです。たとえば南京事件ですが、中国を侵略した日本軍は南京を占領して大虐殺しました。しかしこの時虐殺された人の数は30万人と言われて来たが、実際は10万人だった、いや5万人だった、という風に、ああいう意見もあればこういう意見もあると両論併記して対立させながら、「南京事件」は否定はしないがそんな事実はなかったと言って、事実そのものを骨抜きにしていくわけです。
◯この決定的な罪が教会で起こると、先ほど指摘した、<偽物(肉)と真理(霊)が対立し合っているので、自分のしたいと思うことができなくなる>(17節)。つまり真理の働きを妨げるという、笑って済ますわけにはいかない事態を招いてしまいます。前回は「愛」を取り上げて、イエスの十字架は、神の裁きと赦しが同時に起こった出来事であると学びました。じつは先ほど歌った讃美歌Ⅰの262番は、讃美歌21の300番に引き継がれていますが、歌詞の一カ所だけが、すなわち、〔1.十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛のあえるところ〕が〔1.十字架のもとにわれは逃れ、重荷をおろしてしばし憩う〕に変わっています。他は全く同じです。イエスの十字架は、罪の贖いの成就(愛)と申命21:23の律法に基づく裁きの執行(義)が同時に示されたところなのです。その事実をあいまいにして、福音を無力化しているのです。
◎前回の「愛」に続けて今回は「喜び」を取り上げます。喜びは笑いが生じますが、笑いは必ずしも喜びを生じさせません。笑いには苦笑い、照れ笑い、高笑い、失笑、冷笑、微笑などいろいろあるからです。福音書はイエスが笑ったとはどこにも記されていません。しかし泣いたことがあり、また喜んだことは沢山記されています。だから、喜びから生じる笑いは沢山あったと思います。ただしイエスが、美味しかった、楽しかった、人間として成長した、勝った、やっつけた、といった肉の喜びを喜んだという個所はまったく見当たりません。だから私たちも、肉の喜びではなく、霊の喜びを考えたいと思います。
◯霊の喜びは、自分を喜ぶ、人を喜ぶ、神を喜ぶの3つを考えることができます。人を喜ぶとは、<喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く>(ローマ12:15)ことだと思います。神を喜ぶとは、ユダヤ人から攻撃されて石打の刑を受けた時、聖霊に満たされ、天を見つめ、イエスが神の右におられるのが見えると言いながら殉教の死を遂げたステファノ(使徒7:56)のことを思います。そして、人を喜び、神を喜ぶためにもまず自分を喜ぶことが基本であろうと思います。ただし肉の業の中で生きている私たちです。こんな私たちが霊の喜びにあずかれるのは、奇跡であり、神の恵みであることを感謝したいと思います。
◎そして、「自分を喜ぶ」という霊の喜びには、3つの特徴があります。
❶主において喜ぶことです。喜びという言葉が14回も出てくるフィリピの手紙に、<私の兄弟たち、主において喜びなさい><主において常に喜びなさい>とあります(3:1、4:4)。それは、神われと共にあって喜ぶことです。神の臨在なしの試練、困難は、恨みつらみとなってしまいます。しかし、神われと共にあるとの信仰にあって試練、困難にあうとき、霊の喜びにあずかります。
❷パウロは、<聖霊によって神の愛が注がれているので、苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み、希望は私たちを欺くことがありません>(ローマ5:3~5)と語っています。この霊の喜びにあずかっているからこそパウロは、Ⅱコリント11:23~28で列挙している苦難、患難、試練、悲しみを証言できたのです。またイエスの肉の弟であったヤコブは、<私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。>(1:2)と語っています。これは家族の一人であったイエスの言葉をいつも身近に聞いていたことなしには出てこない言葉ではないかと想像します。
❸自分を喜ぶとは、自分を受け入れ、自分を肯定することではないかと思います。ある子どもが喧嘩して他の子を殴りました。A先生は「人を殴っちゃいかん。謝れ。もう二度としちゃいかん」と言いました。B先生は「人を殴るなんて、なんというひどい子か。ろくな大人にはならん」と言いました。これはたいへん大切なことを教えています。Aは、罪の行ないに対しては断固きびしく叱ってますが、立ち直れることを信じて叱っています。だからその子には希望が生まれ、喜びが生まれ、やり直す力がわいてきます。しかしBは、ダメな人間だと人格を否定し、その人の将来まで認めないで叱っています。だからその子は立ち直れず、自己を否定する人間になっていきます。イエスと当時の人々、弟子たちとの関係や神とイスラエルとの関係を考えるとAの立場だと思うのです。罪に対しては断固裁きを語りますが、深いところに愛があります。だからこそ立ち直れる、自分を肯定することができると言えるのではないかと思います。
◎ところで聖書が語る喜びには、個人に留まらない大きなものがあります。たとえば詩篇126編を読んでみます(略)。この詩編は、バビロン捕囚から帰還したときのエルサレムを背景にしており、3つの段落で構成されています。
①では、主によるエルサレム帰還を、まるで夢を見ているようだと喜んでいます。この喜びをイザヤは、<天よ、喜び歌え、主のなさったことを。地の底よ、喜びの叫びをあげよ。山々も、森とその木々も歓声をあげよ。主はヤコブを贖い、イスラエルによって輝きを現された>(44:23)と語っています。長い捕囚の苦難を経てエルサレムに戻ってきた喜びがわき上がっています。
②ところがエルサレムに戻って見ると、きびしい現実が待っていました。けれども彼らは希望を抱き、かえって信仰によって強められ、主に向かって、もっと多くの帰還者をエルサレムに戻して下さいと願い求めています。神殿の再建を成し遂げて下さる主に対する復活の信仰に燃えています。
③の段落では、「喜びの歌」が2回出てきます。いよいよ神殿が再建されるという喜びにあふれています。エルサレム帰還の指導者であった祭司エズラと総督ネヘミヤのコンビで神殿は再建されますが、このときの様子をエズラ記が伝えています。<昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちは、この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの叫び声をあげた>(エズラ3:12)。
◎以上のように旧約聖書を見ると、個人の喜びがあると同時にもっと大きな喜びも書かれています。
◯先日、超教派の牧師たちの集まりで安倍元首相の国葬のことが話題となり、ある人が、「遺影に向かって呼びかけているのに強い違和感を覚えた。遺影に向かって語ってはいても、じつは自分の本音を後ろにいる人々に向かって語っているのではないか」と述べていました。皆さんはどうでしょうか。これは普通の葬儀でも目にすることです。だから私は、むしろ日本人の一般的な宗教的観念の表れであると理解しています。つまり一般の宗教は、根本においては皆、「肉体は死んでも魂は生きている」という霊魂不滅の信心を持っています。遺影に向かって呼びかけるのは、その信心に基づく行為だと思うのです。しかしイエス・キリストは、肉体は死んだが魂は生き残ったのではなく、肉体も魂も完全に消滅したのであり、それが私たちの死でもあるわけです。だから遺影に語りかけるのは、何もないところに向かって語っているのです。あえて言うならば、完全に眠っているものに語りかけているという、いわば馬の耳に念仏であって、哀れを感じます。
◯イエスは完全に死んで無となりました。しかし存在していないものを呼び出して存在させる神が、90才のサラの胎にイサクを授けたように、イエスを死者の中から復活させられたのです。私たちは死んだら完全に無となります。しかし神に覚えられていて復活させられます。エゼキエルが「枯れた骨」に向かって預言することがエゼキエル37章に記されています。谷に満ちている数多くの干からびた骨に向かって神が息を吹きかけると、骨と骨がつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚でおおわれて、生き返り、大群衆となります。これと同じように、私たちは、終わりの日に復活させられます。この神を信じることが私たちの希望なのです。
◯パウロは、<死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。>(Ⅰコリント15:42~44)と語っています。これは終わりの日のことではありますが、同時に、今、ここで、既にそのことを信じることによって、死んだような私たちが復活させられて生きることが赦されているということを読み取ることができます。
◎霊の喜びにあずかるとき、本当の笑いが生じます。苦難の民族といわれるユダヤ人が、苦難の中にあっても常に喜びがあり、新しいものを生み出していることは、考えさせられます。霊の喜びの土台には自由があります。権威や権力に縛られない自由がもたらす笑い、苦難の中にあっての笑い、これが本当の喜びの表現としての笑いではないかと思います。霊の喜びがもたらすまことの笑いで、偽りの権威・権力を吹き飛ばす自由が与えられていることを感謝して、この一週間を共に歩みたいと思います。

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