2022年10月9日 聖書:ルカによる福音書19章1~10節「救いが、今日、来た」茶屋明朗牧師

 仲間外れや差別されることは、孤独になり、寂しさや悲しみを感じるわけですが、このような状態に置かれると、私たちは、このことに耐えられずに、落ち込んだり、自信を無くしたり、絶望するところがあり、また、反発して、自暴自棄になったり、暴力的なふるまいをするところがあります。
 ローマの手先になって、同胞のイスラエル人から税金を取り立てる仕事をしていて、そのために罪人のレッテルを貼られて、仲間外れにされ、差別されていた、ザアカイは、イエスさまの話を聞きたいという強い思いが見られるので、人々の冷たい態度にめけずに、前を向き、自分を見失っていなかったように思います。
 いちじく桑の木に登って、ご自分を見ているザアカイに目を留められた主イエスは、彼に声をかけられます。これを見た人たちは驚き、「罪深い男のところに行って、宿をとった」とつぶやきます。
 神の教えを説く人が、罪人と言われている人に、声をかけることは、普通ではありえない、驚くべきことでありました。その驚くべき行いによってイエス様は、神の愛を現しているわけです。
 神の愛と祝福は無条件であり、何か立派な行いとか、献金をする行い、正しい行いをする人を、神は愛し、祝福すると言うことではなくて、まして正しい行いや献金が呪いや祟りを失くすと言うことでもなくて、神の愛と祝福は無条件であり、どんな罪深い人でも赦し、受け入れ、愛し、共にいてくださるという、とてつもなく大きに、深く、広く、無限であり、神の赦しと慈しみを受けられない人はだれもいないという驚くべき恵みを主イエスは教えておられるわけです。
 主イエスは、なぜこんな驚くべき振る舞いをされているのかと言うと、それは、ザアカイも、神の祝福と慈しみを受けられているアブラハムの子であるからであり、このことをいろんなことで見失い、苦しくなったり、悲しんでいたり、絶望している人のところに寄り添い、皆新しく生まれ変わって、アブラハムの子として生きて行くことが出来る。そのことを分かってもらい、救いに預からせるために、私は、この世にやってきて、働いていると主イエスはおっしゃっています。
 主イエスは、こんな思いを持ちながら、寂しい思いをし、不自由な思いの中で、いちじく桑の木に登っているザアカイに向かって、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という声をかけられます。
 ザアカイは、この呼びかけに、無関心や疑いの心を持たず、素直になって、幼児のようになって、聞き入れることが出来、驚き、感激し、喜んで、イエスを迎え入れ、彼は、救われ、新しく生まれ変わり、自己中心の人間から、他者のために生きる、真の人間になって生きようとしていきます。
 ザアカイに呼びかけられた主イエスの思いは、私たちすべての者にも向けられていて、このことを私たちが無条件で聞き入れるかどうかで、私たちが救われるかどうかが決まる。

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