2022年10月16日 聖書:ルカによる福音書10章36~37節 「信仰による義」 川本良明牧師

◎マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書にはそれぞれ「永遠の命」と「最も重要な掟」をイエスに尋ねる個所があります。「永遠の命」はマタイ19章、マルコ10章、ルカ18章に書かれていて、内容は3つとも同じです。
 それに対して「最も重要な掟」はマタイ22章、マルコ12章、ルカ10章に書かれていますが、内容はそれぞれ違います。中でもルカの場合、内容が豊かで25~37節まで書かれています。しかし、「善いサマリア人のたとえ話」があまりにも有名で分かりやすいので、このたとえ話を語り手であるイエスから切り離したり、また律法学者が「最も重要な掟」ではなくて「永遠の命」を尋ねているので混乱して読んでいるのをよく見かけます。
 しかし、この個所は「最も重要な掟」を主題としたルカ的な表現なのです。またこのたとえ話も25節からの流れの中で読むことが大切です。
◎「最も重要な掟」とは、旧約聖書の申命記6章5節の<あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい>とレビ記19章18節の<自分自身を愛するように隣人を愛しなさい>の2つのことで、どちらも「愛しなさい」と命令形で書かれています。またそれを引用している新約聖書も命令形です。しかしヘブライ語聖書も七十人訳聖書(前3世紀半ばから二百年以上かけてギリシア語に訳したもので、新約聖書中の旧約聖書引用はこれによっています)も未来形で書かれています。
 つまり神は、<あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛するであろう>、また<自分自身を愛するように隣人を愛するであろう>とユダヤ人たちに語ったのであり、イエスも一般のユダヤ人たちも皆、「愛するであろう」と読んでいたし、語っていたのです。
◎しかし、当時のユダヤ人指導者たちはそうではありません。これを歪めて読んでいました。かつてエジプトで奴隷であった彼らの先祖は、モーセによってエジプトから脱出した後、神から十戒を与えられ、十戒を基本とする様々な掟を授かりました。それを律法と言います。彼らは律法を実行して神に正しくなろうとしました。神から正しいと認められることを「神から義とされる」と言い、律法を実行して神の義を得たならば、それを「律法による義」と呼んでいました。これは信仰による義と根本的にちがっていて、彼らは熱心に律法による義を得ようと努力したのです。
 しかし、かつては熱心にそれを実行していたパウロは、<律法を実行してもだれ一人神に義とされない>(ローマ3:20)と語っています。このことは当然と言えば当然です。たとえば十戒の中の第一戒<あなたは、私をおいてほかに神があってはならない>という掟を守ることなどだれ一人できないはずです。じゃ守れない律法を、神はなぜユダヤ人に授けたのか。そこに神の深い愛があるのですが、むしろ人間はこの掟を聞いて怒るのです。
◎私たちは、人から何か言われると反射的にマイナス的に考え、命令的に聞き、ダメな自分を責めるか、あるいは人と比べて自信を持とうとします。人の言葉でさえそうですから、神の掟を聞くユダヤ人は、なおさら、「愛するであろう」と語っても「愛しなさい」としか聞こえません。だから神を愛さねばならない、隣人を愛さねばならないと思うわけです。
 この「神への愛」と「隣人への愛」という最も重要な掟が歪められると、当然他のすべての律法も歪められます。これをユダヤ人たちは熱心に実行して神の義を得ようとしたのです。
◎<ところが今や、律法とは関係なく神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です>(ローマ3:21)。このキリストを信じることで神に義とされることを「信仰による義」と言います。イエスは言われました。<私が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである>(マタイ5:17)。
 この言葉どおり彼は、私たちの罪を容赦なく裁く神の怒りを、私たちの代わりに身に受けて、この神の御心に従って十字架に死んで下さいました。これほどまでに私たちは神から愛されているのです。このキリストを信じるとき、私たちは神に義とされ、聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれ、神を心から愛し、自分を愛するように隣人を愛することが始まります。
 先ほどなぜ神は守れない律法を授けたのかと言いましたが、それは律法によって罪を自覚させるためでした。いかに自分が神の言葉に従うことができない罪人であるかを自覚させて、神を信じることを求めたからです。
◎このことを踏まえて先ほどのルカ10:25に戻りたいと思います。律法学者がイエスに尋ねました。マタイやマルコでは、それにイエスが第一の掟、第二の掟として答えていますが、ここでは答えずに逆に彼に答えさせています。そこで彼がすらすらと答えると、イエスは<正しい答えだ>と言われました。
 そのとき律法学者はどのように感じたのでしょうか。最も重要とされている掟を自分の口で言いながら、今までそれを命令的に聞いていたのにそうでないと気づいた彼の様子が目に浮かびます。
 その彼にイエスは、<それを実行しなさい。そうすれば命が得られる>と言われました。つまりイエスは彼に、「神は、愛せよとは言ってないでしょ。だから愛さねばならないとか、がんばらんでいいよ。私を信じなさい、私について来なさい。そうすればあなたは愛する者になるよ」と言われたのです。
◎しかし彼は、「それを実行しなさい」というイエスの言葉に挫折しながらも、なおも自分を正当化しようとしました。動揺しながら、なおもがんばったわけです。それでイエスは1つのたとえ話を語りました。語り手はイエスです。だから25節からの文脈の中でこの物語を聞くことが必要です。
 物語は非常に単純です。追いはぎに襲われて半殺しにされた人をめぐって3人の人が登場します。その人を見て避けて行った祭司とレビ人というユダヤ人と、その人を憐れに思って善意を尽くす異邦人のサマリア人です。
 サマリア人の「憐れに思う」という言葉は、福音書に12回出てきます。8回は「群衆を見て深く憐れむ」とか「盲人を見て憐れに思った」などイエス自身のことであり、3回はイエスが譬え話(放蕩息子の父親・借金を返せない家来を許す王・善きサマリヤ人)で用いています。だからこのサマリア人はイエスを指しています。
 祭司とレビ人は、その異邦人のサマリア人と対照的ですので、単に見て見ぬふりして通り過ぎた冷たい人々というよりも、神と隣人への愛の掟を知っていながらも実行できないでいるユダヤ人たちと見た方がいいと思います。
◎物語を語り終えたイエスは彼に問いました。<さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか>。「もちろん! 哀れみをかけてやった人です」と彼は答えました。そこでイエスは、<あなたも同じようにしなさい>と言われました。
 さっきの<それを実行しなさい>と同じように言われていますが、単なる繰り返しではなく招きの言葉として、「あなたは私を信じて、私に従って来なさい。そうすればあなたは、神を愛し、隣人を愛する者となる」と言われたと思うのです。この招きに応えて信仰によって義とされるならば、そのとき、<隣人を自分のように愛する>ことが始まるのです。
◎この「隣人を自分のように愛する」と訳されていることについて、在日大韓教会の李仁夏牧師が次のように語っています。「この言葉は、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』と読む方がよい。隣人を愛する前にまず自分を愛することが大切です」。そしてあるエピソードを紹介されました。黒人差別の強い米国のある黒人女性の話です。
◯彼女は自分を憎んでいました。周りが白人ばかりの社会で育った彼女は「黒人は汚い、劣っている」といった白人の価値観を受け入れて生きてきました。思春期になり、鏡に映る「黒い肌と縮れ髪、大きな鼻」の自分が嫌でたまらなくなり、「どうしてこんな自分を産んだのか」と言って親を呪うまでになりました。
 そんなとき、彼女は教会でイエス・キリストに出会い、私に黒い肌の命を与え、このままの自分を愛しているキリスト・イエスの愛を知ったとき、彼女は「Black is beautiful!」と証しするまでになりました。
 自分と和解し、ありのままの自分を認め、自分を愛する者になったとき、彼女は隣人を愛する者へと変えられていきました。白人に対しても卑屈にも優越にもならず対等の関係に入ったのです。
◎この李仁夏牧師と関係のある宋富子さんを紹介します。彼女は11月に文化センターアリラン建設のための講演ツァーのために山口、九州を巡回されます。彼女は李仁夏牧師に出会ったことを次のように語っています。
 「私の転機は31歳のとき、在日朝鮮人牧師李仁夏先生との出会いでした。桜本保育園父母会で園長の李先生の笑顔の挨拶の一言「桜本保育園はキリスト教の教えにしたがって保育します。聖書に『自分を愛するように自分の隣人を愛しなさい』とありますが、自分を愛する意味で韓国・朝鮮人の皆さんにも親子で本名、民族名を使用していただきます。同胞の皆さんは日本名ですが、今はもう植民地時代ではなく自由です」。
 李先生の一言が私の身体中に電流が流れるような衝撃を受けました。その夜、私は一睡もできません。私は4人の子どもの母親なのに社会の仕組みも歴史も何も知らない、無知な自分に気がつき、涙ばかり流れました。」北九州地区でも在日・日女性会や外キ連祈祷会で講演を聞くことになっています。
◎教会は、ありのままの自分を現す所ではないかと思います。キリストの愛を知って、自分を愛することが起こるとはどういうことでしょうか。教会の中で在日として生きようとすると、「そんな難しいことを言いなんな。神を信じているなら日本人も朝鮮人もなかろうもん」と言う人がいます。まったく逆です。
 日本では、今なお在日の人たちに対する差別が根強くあります。そのことは、彼らがいまだに日本名で生活することを余儀なくされていることを見ただけでも明らかです。本名を名乗ったら就職をはじめいろんな苛めを受けるからです。
 しかし、神から愛され、在日として命を与えられたことを知ったとき、ありのままの自分を生きる者とされます。だから教会に来たら、なおさら、在日であることを明らかにして、共に神を信じて歩むことが起こるのです。
 教会でも本名を名乗れないとすれば、それは在日の人たちの責任ではありません。教会がそういう教会になっていないということなのです。だから、むしろ日本人である私たちが、自分の中にある自国中心の思い上がりから解放されて、何人であろうと隣人として愛する個人になることが求められているのです。そのような教会にならなければならないし、なって欲しいのです。
 しかし、私たちにそれができるでしょうか。できません。そのためにこそ神は、私たちに信仰による義を求めることを赦して下さっているし、私たちは、神を愛し隣人を愛する愛に生きることを約束しているイエスを信じることが許されているのです。そのことを感謝してこの一週間を共に歩んでいきたいと思います。

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