2022年11月6日 聖書:エゼキエル書37章10節 「永遠の命に生きる」 川本良明牧師

◎いまお読みした聖書は、預言者エゼキエルが、神から示された幻による預言です。それは、捕囚となって連行された異教の地バビロンで、彼がいつも神との交わりを持った場所で示された、次のような幻です。
 目の前に枯れた骨が累々とあり、神からそれに向かって預言せよと命じられ、彼が命じられたように預言すると、カタカタと音を立てて骨と骨が近づき、骨の上に筋と肉が生じ、その上に皮膚が覆い、肉体が再生して人間の形になりました。そしてさらに神から命じられて預言すると、神の霊がその中に入り、生き返って、大集団となったという幻でした。
◎この幻の意味を、神は11節以下で語っています。<これらの骨はイスラエルの民である。彼らは「我々の骨は枯れた。希望はなく、滅びる」と言っている。だが私はお前たちを墓から引き上げ、霊を吹き込み、生き返らせ、イスラエルの地へ連れて行く>。
 エルサレムの神殿は破壊され、約束の地を追われて異教の地にあって、もう歴史から滅び失せるのだという絶望の極みにあったイスラエルの民に、神はエゼキエルを通して語ったのです。そして神が霊を吹き込むと、具体的にどんなことが起こるのか、それが36章26~28節に書かれています。
 <私はお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。私はお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、私の霊をお前たちの中に置き、私の掟に従って歩ませ、私の裁きを守り行わせる。お前たちは、私が先祖に与えた地に住むようになる。お前たちは私の民となり、私はお前たちの神となる。>
◎大切なことは、神は今イスラエルと新しく契約を結んでいるということです。私たち人間は、限られた時間に生きていて、世代も代わっていきます。しかし神は、始めも終わりもない、無限に存在するお方です。つまり神は永遠の時間に生きています。だから神と人間の契約は、その都度結ばれるのです。
 たとえば、神はイスラエル民族の始祖アブラハムに対して、「私はあなたを祝福し、あなたの子孫をも祝福し、あなたを大いなる民の先祖とする」という契約を結ばれました。この契約は、一度結んだら終わりではなく、彼の生涯を通じてたびたび確認されています。そして世代が代わり、彼の子イサクや孫ヤコブに対しても、同じ契約が、それぞれ新たに結ばれています。永遠の神だからこそ有限な人間に対して、そのように関わっていかれるのです。
◎聖書が語る永遠とは、限りない時間の継続を表わしています。時間を超えた天国や永久という意味ではなく、多くの時代が継続していくことが永遠なのです。聖書の中に、<この神は代々限りなく私たちの神であり、死を越えて、私たちを導いて行かれる>(詩編48:1)という言葉がありますが、それは時間の中で具体的に神の出来事が現れることを聖書は語っているのです。
 枯れた骨のようなイスラエルに希望を語った神は、単にはるか昔のイスラエルの人々に語っただけでなく、永遠の時間に生きておられる神は、今の私たちにもこの言葉を語りかけておられるのです。
◎この永遠の神は、時が満ちて、御子イエス・キリストを、ユダヤ人の一人として女マリアに生まれさせて、世に遣わされました。永遠の昔から愛しておられた神は、世におけるイエスの全生涯を愛されました。ナザレ村のイエスを愛し、荒野でもゲツセマネでも愛し、とりわけ十字架において愛し、最期に叫び声をあげて息を引き取られた時にこそ愛されました。
 永遠の神と1つである御子イエスは、まさにご自身の永遠の命を限られた時間と場所において現されたのです。あるときイエスは、3人の弟子たちを伴って高い山に登られました。すると突然、聖なる姿に変わりました。弟子たちがおどろいていると、雲に覆われて元の姿に戻りました。このようにイエスは、ご自分が永遠の神の御子であることを示されたのです。
 ですからイエスは、本来死ぬべきお方ではありませんでした。なのになぜ彼は、十字架につけられて死なれたのか。これについてパウロは、<キリストは、神に対して生きておられますが、ただ一度罪に対して死なれました>と語っています。
◎永遠の神は、愛するご自分の御子を十字架に死なせることによって、罪に生きる私たちに対する怒りの裁きをイエスにおいて終らせました。
 本来ならば、神にそむき、好き勝手に、また私利私欲に、自分中心に生きて、そのために様々な苦しみや痛みを背負い、最終的には死を招いている私たちこそ十字架につけられて裁かれ、苦しみ、死ななければならないのに、このような私たちに代わって、イエス・キリストが十字架にかけられて、罪の裁きを終らせたのです。
 キリストは、ただ一度人間の罪に対して死ぬために世に来られたのです。そして神は、御子を死者の中から復活させて、私たちの罪をあがなったこと、罪が許されたことを示されただけでなく、この御子を信じる者には、永遠の命を与えることを約束されました。
◎一般に宗教は皆、「肉体は死んでも魂は生きている」という信心を持っています。だから前世のことを語ったり、葬儀のときに遺影に向かって呼びかけたりします。しかし、私たちが永遠の命に生きるのは、そういう「不滅の霊魂」といったあいまいなものではなく、キリストを信じて、神との新しい関係に入ることなのです。
 イエスご自身が、<永遠の命とは、唯一のまことの神と、神のお遣わしになったイエス・キリストを知ることです>(ヨハネ17:3)と語っています。
◎今日は、亡くなられた方々を神の御前に憶える聖徒の日礼拝です。もちろん掲げられている写真は遺影ではありません。
 この方たちは様々な人生をたどって、神の御許に召された方々ですが、共通しているのは、キリスト・イエスに結ばれて洗礼を受け、キリストの死にあずかり、キリストの復活の力によって新しい命に生きる者とされ、その信仰の人生を歩まれたことです。
 その信仰は常に脅かされていたのではないでしょうか。しかし、その信仰の生涯を生きぬくことができたのは、ただただキリストのおかげであったと思います。ですからこの方々は、確かに信仰の先達とも言えますが、むしろ「神の恵みに生かされて、その生涯を終えられた先達」と称びたいと思います。
 この方々を生かされ、その生涯の中でその都度その都度関わって導かれた永遠の神が、今、私たちにも同じ恵みを備えてくださることを感謝したいと思います。
◎先日、飯塚教会が主催した筑豊巡りがあり、田川石炭資料館から添田の日向墓地、飯塚霊園の無窮花堂、そして宮田教会初代の服部団次郎先生が中心となって建てた復権の塔を案内していただきました。
 若松の自宅の近くには、北九州市営の小田山墓地があって、その一角に戦後まもなく大型の枕崎台風で遭難した朝鮮人の遺体80体ほどが埋められた場所があります。また門司には在日大韓キリスト教会小倉教会の永生園という、筑豊地域の各地から集めた朝鮮人の遺骨を納めている納骨堂があります。
 私自身も若松の炭住街で育っていて筑豊地域には昔から関心があり、とりわけ中小、零細炭鉱の中で働かされた人たちや強制連行されて殺されていった朝鮮人に関心があり、機会があれば筑豊巡りに参加してきました。
◎このような場所に立つとき、ここに眠っている名も無い朝鮮の人たちのことを思います。キリストによって為しとげられた神の恵みは、キリスト者であろうと無かろうと、すべての人に及び、終わりの日に霊の体に復活することが約束されています。その約束を知らされているからこそエゼキエルの「枯れた骨」の預言を思い起こすのです。その預言によって生き返った大群衆を、神はバビロンから遠く約束の地カナンに帰還させました。
 つまりここに眠っておられる方々を私たちは知らない。けれども神は覚えておられます。永遠の神は、この方々の全生涯において確実に関わっておられたわけですから、たとえ人がそれを消し去ろうとも、神は覚えておられます。ですからこの方たちも終わりの日に霊の体として復活させられます。いや、まず第一番にそういう方々が復活させられると思うのです。
◎この永遠の神は、歴史の中で計画的に、着実に、ご自分の栄光を現わす業を進めておられます。周知のように古代エジプト帝国において奴隷であったイスラエルの民を、神はモーセを用いて解放されました。
 その奴隷解放は、今や世界中に広まっています。いろんなところで人権が叫ばれ、解放の業が行われています。これは、それを知っていようといまいと神ご自身が着実にその計画を進めておられているということではないでしょうか。それは日本も例外ではありません。
 その永遠の神こそイエス・キリストを死者の中から復活させた神であり、聖霊として人の中に住まわれて、その人を用いて、その栄光を現されるのです。これについてパウロは、ガラテヤ書の中で、<私たちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう>(ガラテヤ5:25)と語っています。
 永遠とつながった今を生きて、終わりの日に復活させられることを信じ、その希望を抱いて、この一週間を歩みたいと思います。

聖書のお話