2022年11月27 聖書:マルコによる福音書3章13~19節「神に選ばれしもの」岡田博文兄

 主イエスは「わたしについて来なさい」と呼び掛けて、お招きになり、彼に従ってきた者の中から、「使徒」と呼ばれる十二人の弟子を選ばれました。
 13節には「これと思う人々」とありますが、口語訳では「みこころにかなっ他者たち」、塚本虎二訳では「自分でこれぞと思う人たち」です。直訳では「ご自分が望んだ人々」です。
 つまり、弟子が主イエスを選ぶのではなく、主イエスが弟子を選ぶのです。これが今朝の第一の真理です。             

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そしてあなたがたを立てた」(ヨハネ福音書15章16節)とある通りです。

 聖書の中での「選び」という考え方は少し分かりづらいかもしれません。私たちは普段「選び」と聞くと、選ばれた人に何か素晴らしい点があるのだと思います。しかし、神の選びとはそういうものではありません。
 神によってイスラエルの民が選ばれた経緯を旧約聖書の申命記7章6~8節で次のように述べています。また新約聖書でキリスト者の選びについてパウロは、コリント信徒への第一の手紙1章26~31節で次のように語っています。これが聖書の語る選びです。
 聖書の神は、弱く、貧しい人を選ばれるということです。なぜなら彼らこそが切実に神の救いを必要としているからです。この選びは、圧迫されている人々に対する神の深い憐みであり、人間を救うための選びなのです。
 つまり、選びということで聖書が強調するのは、救いが人間の功績や力によるのではなく、神の愛と慈しみによるものだ、ということです。そうです。主イエスの弟子になった人々も、人間的に見て何か優れた点があったわけではありません。むしろ、無学な人や当時、軽蔑されていた人たちが選ばれたのです。
 神は「選ばれた人」だけを救おうとされません。神の選びにはいつも「使命」が伴います。選ばれた人はすべての人の救いのために働くのです。
 第二の真理は、「自分のそばに置くため」(14節)です。主イエスが弟子たちに求めておられることは、何よりもまず、主イエスのみそばに座って、そのみ言葉に聞き入ることであり、主イエスと<いのちの関係>を保ち続けることなのです。私たちは、自分を見失いがちな忙しい生活の中で、聖書を学び、神を礼拝することを基礎にして生活全体を整えることによって、本当に人間らしい生活を取りもどすことができるのです。
 第三の真理は、「宣教に遣わす」(14節)ことでした。神の国の福音を人々に伝えるために、彼らをお遣わしになることでした。「そばに置くこと」と「宣教に遣わすこと」とは、あたかも車の両輪のように、どちらが欠けても、その目的を達成することが出来ない、密接な関係を持っています。神から選ばれた者は神から遣わされた使命を果たすことが人生の目的です。

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