2022年12月4日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「平和に生きる」川本良明牧師

◎昨日、小倉の在日大韓西南基督教会館にある教団九州教区の分室で北九州地区の平和集会がありました。福岡には教団九州教区のキリスト教会館があり、その中に西南地方会の分室があります。<福岡・教区キリスト教会館・西南地方会の分室>と<小倉・在日大韓西南基督教会館・教区の分室>が相互にありますが、この経緯は後日紹介したいと思います。
 集会は「身近なところから平和を作りだそう」を主題に3つの活動の発表がありました。開会の挨拶で地区委員長がウクライナの戦争にふれ、国と国、人と人が互いに対立し殺し合う痛ましい現実が一日も早くなくなることを願っていると語り、国と国、人と人との間に平和が来るように祈られました。その熱い祈りを聞きながら、自分自身との平和を祈るべきだと感じ、そこで思い浮かんだのは、<自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい>というイエスの言葉と、これについて語った在日大韓教会川崎教会の李仁夏牧師の言葉でした。
◎李牧師は、「隣人を愛する前にまず自分を愛することが大切です」と言って米国の1人の黒人女性を紹介しました。周りが白人ばかりの社会で、「黒人は汚い、劣っている」といった白人の価値観を受け入れて育った彼女は、思春期になると、鏡に映る「黒い肌と縮れた髪の毛、大きな鼻」の自分に嫌悪し、自分を産んだ親を呪いました。そんなとき教会でキリストを知り、その愛にふれた彼女は、自分を受け入れ、自分を愛する者になりました。そして自分に黒い肌の命を与えた神を信じ、人を愛する者へと変わり、白人に対しても卑屈にも優越にもならず、対等の関係を持つようになったのです。
◎しかし彼女が自分を愛する者となったのは、自分の努力によってではないと思います。彼女は、キリストを知ったとき、決してキリストから「私はあなたを愛している。だからあなたは自分を愛しなさい」と言われていないからです。神への愛と隣人への愛についての掟はどちらも命令形ではなく未来形です。イエスは、「あなたは私を信じなさい。私にいっさいを委ねなさい。そうすればあなたは自分を愛する者になります。なぜなら私があなたに代わってそれを完成したからです」と言われているのです。同じことは、「平和を作り出す人々は、幸いである」とイエスが語られた言葉についても言うことができます。
◎それは「山上の説教」と呼ばれるマタイ5章3~10節の中にある言葉です。これを読むときに忘れてならないことは、<私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである>(マタイ5:17)と語ったイエスから切り離さないことです。山上の説教は、イエスが律法と預言者とを実現するためになされたことであって、たまたまイエスが抱いていた単なる見解ではないのです。このことを踏まえて山上の説教を見てみたいと思います。
 まず<心の貧しい人々は、幸いである>から<義のために迫害される人々は、幸いである>まで8つの幸いを語った後、1つ目と8つ目はどちらも<天の国はその人たちのものである>と述べています。ところが2つ目の<悲しむ人々は、幸いである>から7つ目の<平和を実現する人々は、幸いである>までのそれぞれの後半部分つまり<その人たちは慰められる>から<その人たちは神の子と呼ばれる>までの6つは皆、「~であろう」と未来形で語っています(口語訳聖書ではそうなっていました)。つまりイエスは、<平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれるであろう>と語っているのです。
◎自分自身との平和が築かれてこそ人と人との平和、国と国との平和が実現される土台です。ところが最も困難なのが自分との平和ではないでしょうか。しかしイエスは十字架に死んで戦いに勝利し、復活して私たちの代わりに平和を完成してくださいました。このイエスから離れず、「私を信じなさい。そうすればあなたはそれを実現する者となるでしょう」と言われるイエスに委ねることです。
 このイエスに委ねず、イエスを抜きにして、<平和を実現する人々は、幸いである>という言葉を聞くとき、「平和憲法を守ろう、九条を守ろう、日本国憲法は神様から与えられたものだ」などと言い、「平和のためにがんばるぞ!」と拳を上げるかどうかは別にして、結局は、神の誉れよりも自分の誉れ、肉の誇りを求める行為となり、さまざまな平和の運動も亀裂が生じ、非暴力を叫ぶ者と暴力を行使する者との間に深刻な対立を招くことになります。
◎ここで平和実現のためのささやかな活動を紹介します。先ほどふれた平和集会で発表した活動の1つに「ノーモア倭乱」の取組みがありました。発表者は朱文洪牧師でした。倭乱(ウェラン)とは豊臣秀吉による朝鮮侵略のことで、1992年に佐賀県唐津の名護屋城址で日本史上初めてそのことに抗議する集会を開きました。
 この年は、南北米大陸の先住民たちが「コロンブスの新大陸発見から五百年を記念する」ことに抗議していることが日本でも話題になっていました。ところが在日大韓基督教小倉教会の崔昌華(チェチャンファ)牧師が、日本が朝鮮侵略してから四百年ではないか、南北米大陸のことよりも足元を見るべきだと指摘されたのです。それから毎年名護屋城址で「倭乱を覚える集会」を開きました。
 1999年にこれを最後にしようとしたとき、終る前に韓国に行こうとなって、2000年に「NO MORE 倭乱」を横断幕にして釜山に行きました。そこで強い衝撃を受けました。韓国では四百年前の過去の歴史が、現在も脈々と生きていることを知ったからです。それと同時に私たちの集会に対する韓国の人たちの反響は大変なものでした。そこで私たちは毎年韓国各地で集会を開くことになったわけです。そして韓国へは関釜フェリーで行きました。それは昔、朝鮮人が関釜連絡船で強制連行されたことを追体験するためです。その中で学習会や交流会などの楽しい経験をしました。また集会を通して韓国の学校の教師やキリスト者や市民たちとの交流も始まりました。
 このようなことを取り組む意義は崔昌華牧師から学びました。それは「もしも日本が豊臣秀吉の朝鮮侵略を心から反省していたら、近代の日本が朝鮮を侵略することはなかったであろう」ということです。徳川家康は、「自分は朝鮮侵略には一兵も出さなかった」と伝えて国交の回復を求めた結果、捕虜の交換から始まり、鎖国中も対等の外交関係を結びました。そのため何百人もの通信使が将軍の代替わり毎に来日して、文化的な交流は行われました。しかし歴史を反省することはなく、近代になると日本はもっと大規模な朝鮮侵略を起こしたのです。だから韓国の人たちにとって倭乱の歴史は、過去のことではなく現代も生きているのです。
◎「ノーモア倭乱」の取組みを発表した朱牧師は、7月に釜山の釜慶(プギョン)高校2学年とオンラインで授業を行なった私を指名したので簡単に紹介しました。それは前もって学生たちが小グループに分かれて話し合い、質問を用意し、それに答えるというものでした。料理や観光地の質問と共に「どんな希望をもって運動しているのですか」とか「小さな団体ですが、日本全体を変えられると思いますか」「韓国を訪問して一番印象深かったのは何ですか」など、その質問の高さに驚きました。
 「5円50銭を言ってみてください」とありました。この意味をおわかりでしょうか。関東大震災の時、被災者たちから朝鮮人を見つけ出すために自警団などが言わせた言葉で、これで6000人以上の朝鮮人を虐殺しました。韓国の高校生たちがその歴史事実を学んでいることが分かります。一番きつかった質問は、「亡くなった慰安婦の方への言葉を聞かせて欲しい」というものでした。皆さんならどのように答えますか? 
 日本は朝鮮を侵略し植民地として長く支配しました。そのため韓国の人たちが受けた傷は、今の世代を含めて癒やされないまま続いています。授業後の感想文には、「私は日本がもっと好きになりました。自分の国ではない他の国のために活動してくださる姿に感謝し感動を受けました」などいくつかありました。ノーモア倭乱の取り組みを、平和の種をまくささやかな活動として紹介しましたが、この活動の根柢にあるのは歴史認識の問題です。
◎平和を実現するのに歴史を正しく知ることはたいへん大事ですが、日本の学校の歴史教育は、小・中・高校とも皆、古代から始まるので近現代はせいぜい日清戦争のころまでです。その日清戦争が終った直後に日本公使らが計画して王宮に襲撃して明成(ミョンソン)皇后を殺害しました。強制連行などよりも40年以上前に起こしたことを、謝罪どころか知らない人がほとんどです。このように歴史認識の欠けた知識人、政治家、一般人が育ってしまっているのです。
◎神はアブラハムを選び、イスラエル民族を興され、モーセを用いてイスラエルを奴隷の家、エジプトから解放されました。人類史上初めての奴隷解放が神によってなされたのですから、人はこれを止めることはできません。人類の歴史は罪と悪の泥まみれの歴史です。この世界史の中に介入した神は、この数千年の間に奴隷解放の業を着々と進め、今や全世界に広がっています。歴史を考えるとき、この視点が大切だと思うのです。それは日本も例外ではありません。
 イタリアやドイツのファシズムは倒れましたが、日本の天皇制ファシズムはなくならないで生き続けています。つまり日本は最も洗練された奴隷制国家なのです。これに対して神は必ず働きかけてくださいます。クリスチャンである私たちこそ、そのことを信じて忍耐して待ち続けるように求められていると思うのです。
◎歴史には正反対の見方があります。朝鮮をユーラシア大陸から日本に向けて突き出たナイフだという見方と母親の乳房で日本に栄養を与えてきたという見方があります。対立的なマイナスとして見るか、平和的なプラスとして見るかです。
 人には能力と熱意と考え方があります。能力と熱意は0から100点まであります。しかし考え方はマイナス100点からプラス100点まであります。能力と熱意の関係でいえば、{能力50×熱意90}と{能力90×熱意30}つまり能力を鼻にかけて熱意がさっぱりの人より、能力は劣るが熱意のある人の方が優れていると見るのが一般的な見方です。しかしこのどちらも、考え方がマイナスだと全部マイナスになります。これは人生や人間関係などあらゆる面で言えます。
◎歴史でいえば、考え方とは歴史認識のことです。私たちは歴史をマイナスとしてしか見れないのですが、聖霊の働きによってプラスとして見ることが約束されていることを感謝したいと思います。愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・誠実・柔和・自制はいずれも聖霊の実ですが、その中の1つが平和です。
 聖霊の実を結ぶのは私たちではありません。私たちは委ねることしかできませんが、委ねることが許され、また命じられています。聖霊は平和を作り出す神の力です。つまりイエス様が平和を作り出してくださるのです。聖霊によって、敵意ではなく平和を土台にした歴史を学び、歴史の主を証ししつつ平和に生きることができることを感謝したいと思います。

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