2022年12月25日 聖書:ルカによる福音書11~12節 「救い主の誕生」 川本良明牧師

◎世の中には「神」と称ばれるものがあふれています。しかし、そういう神は皆、人間が考え創り出したものです。だから人類が消滅すれば皆消滅してしまうものです。私たちは、健康のことや人間関係、お金や商売、教育などで様々な困難にぶつかり、どうしても乗り越えられないとき、自分を超えた力にすがろうとして神を創り出すのではないでしょうか。しかしどんなに超越したものを考え創り出しても、所詮は人間が創り出したものですから、そういう神にすがっても、ちょうど泳げない人が溺れている人を助けようとするのと同じで、救われることはありません。
◎もしも神が本物の神なら、全く手の届かない存在であるはずです。聖書が語っている神は本物であって、聖書が伝える神は、海も空も山も宇宙も、あらゆる生き物はもちろん人間も創造した神です。ですから造り主である神を見たり知ったり感じたりできないのは当然です。私たちにできることは、「神様、どうか私たちにご自分を示してください」とただ神に願い求めることだけではないでしょうか。
◎今から2000年前、神は人間の赤ん坊として、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったと聖書は書いています。今日お読みしたルカ福音書の2章には、当時のローマ皇帝アウグストゥスとシリア州の総督キリニウスの名前が出てきます。また住民登録の勅令やその住民登録のために夫ヨセフと身重の妻マリアがベツレヘムに行き、そこでマリアが出産したことを書き記しています。それは、この出来事が神話でもだれかの創作でもなく、歴史的な事実であることを伝えるためなのです。
◎羊の群れの夜番をしていた羊飼いに天使が現れたとき、<彼らはひじょうに恐れた>とあります。私たちは切に神を求めていながら、実際に本物の神が現れると、ひじょうな恐れに包まれます。けれどもそれは神がもたらす恐れであって、恵みを伴った恐れです。事実、<今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである>と告げられたとき、彼らは拒否するどころか、<さあ、ベツレヘムに行こう>と言い、急いでベツレヘムに行き、家畜のエサ箱に寝かせられた乳飲み子を見て、喜びと希望にあふれたのです。
◎ヨセフとマリアは、天使から告げられた通り赤ん坊の名をイエスと名付けました。<この方こそ主メシアである>と天使が語っているメシアとは、ギリシア語読みでキリストと言い、救い主のことです。そしてこのイエスという救い主が生まれたことを祝うのがクリスマスなのです。ではなぜお祝いするのか。それは、このイエス・キリストこそすべての人を、罪に支配された体から救い出して、永遠の命に生きる神の国の住民とするための業をなしとげて下さったからです。
◎ベツレヘムで産声を上げたイエスは、ナザレという村で、少年となり、青年となり、大人に成長しながら、人間がどのように生きているのか、どんなことに悩み、喜び、悲しみ、苦しみ、悪いこと、良いこと、楽しいこと、つらいことなど、あらゆることを経験し、人間のすべてを知り尽くされました。神をお父さんと親しく呼び、神と一つであったイエスは、知恵に富み、感情も知性も意志も完全なお方として成長し、恐れのまったくない平安の中で、じつに慈しみ深く暖かい心から溢れ出る眼差しで人々に接し、まさに真の神と真の人が1つであるお方でした。
◎やがて彼は、神の子として父なる神から与えられた使命を果たす時が来ました。そのとき彼は家族と故郷を後にして、大勢の人々の中で病人を癒やし、貧しい人の婚礼で水をぶどう酒に変えたり、また悪霊を追い出し、重い皮膚病に苦しむ人を清くし、手の萎えた人を元通りにし、なんと死人を生き返らせ、助けと慰めを求めて続々と集まってくる人々を少しも拒むことなく、立ち去らないでいる数千人の人々に食事を与え、寝食を忘れて憐れみの業を行なわれたことを福音書は数多く記しています。まさに「救い主の到来である」と、人々は感動と驚きと喜びをもって迎えました。しかしそれが彼の使命のすべてだったのでしょうか。
◎あるとき、生まれつきの盲人を見た弟子たちから、「先生、この人が盲人なのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と問われたとき、彼は、「本人の罪でも両親の罪でもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われて、彼の目を見えるようにしました。ところがこれを見たユダヤ人の指導者たちは、安息日に守るべき掟を破ったことを盾にしてイエスを告発し、極悪人として命を狙うようになりました。そこには妬みの罪が強く働いていると思います。
◎ユダヤの格言に、「良いアイディアには人格がない」というのがあります。たとえば会社で運営会議があり、ある人が良いアイディアを提案したのに、上司が普段からその提案者を嫌っていたため、せっかくのアイディアが不採用となって大損しました。上司がアイディアと人格を切り離すことができなかったというわけです。人の姿のままに神の力を用いて愛の業をしているイエスを見て、妬む人たちが現れました。しかし人の悪意をものともせずにひたすら父なる神の業を行なっているイエスを見て、ますます我慢ならなくなった彼らは、心を合わせて、何とかしてイエスを排斥し、亡き者にするために本格的に真剣に行動し、いよいよ権力を使って彼を捕らえ、十字架につけて殺してしまいました。しかしこれこそが神の目的であったし、また神から託されたイエスの使命でありました。
◎あるとき、イエスは弟子たちに、「あなたがたは、私のことを何者だと思うか」と尋ねました。ペトロが「あなたはキリストです」と答えると、イエスは初めて、「自分はエルサレムで苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目に復活する」と打ち明けました。それからまもなく3人の弟子を連れて山に登り、彼らの目の前で姿が変わり、モーセとエリヤが現れて何かを語り合い、まもなく元の姿に戻りました。これは明らかに復活の先取りであり、イエスが秘密を打ち明けた出来事です。
◎つまりこの出来事が伝えていることは、本来イエスは死ぬべきお方ではなかったということです。なのになぜ死なれたのか。なぜ人々の手にかかってみずから命を奪われるままにされたのか。またなぜ父なる神はそれを許されたのか。これについて使徒パウロは、<キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは神に対して生きておられるのです>(ローマ6:10)と語っています。彼はただ一度罪のために死なれたというのです。罪が支払う報酬は死です。イエスは、その死を滅ぼすために死に、あらゆる苦しみを滅ぼすために苦しみ、神に捨てられる私たちに代わって神に裁かれ、捨てられて、私たちを滅びから救い出すだけでなく、永遠の命を生きるために死なれたのです。
◎それが父なる神の意志であって、イエスは神の子として、死に至るまで父なる神に従順に従われました。ですから神は彼を復活させて、すべての人の救いを成し遂げたことを宣言されたのです。復活したイエスは、40日間、弟子たちに現われて生活を共にした後、<私はあなたがたを孤児とはしない。まもなく神のもとに帰るが必ず戻って来る。そのときには、私は見えない霊としてやってきて、私を信じる者の心に宿り、いつもその人と共にいて、永遠の命を与え、神に造られた良き作品としてふさわしい者とし、神の国に迎え、永遠に共に生きることになる>と約束されました。そして彼は天の神のもとに帰られました。
◎それから10日後、驚くことが起こりました。約束を信じて待っていた弟子たちのもとに聖霊が降ったのです。聖霊は復活したイエスと同じイエスであり、私たちを罪から救い出すために十字架に死んだイエスと同じイエスであり、それ以前に寝食を忘れて憐れみの業をされたイエスと同じイエスであり、ナザレの村で成長しながら、人生のあらゆることを知り尽くされたイエスと同じイエスであり、家畜のエサ箱に寝ていた乳飲み子と同じイエスです。このイエスが聖霊として私たちの中に来られたことこそクリスマスなのです。
◎しかし肉の弱さの中にある私たちは、残念ながら心から救い主の誕生を祝えないでいるのではないでしょうか。たった一つ何かある事が起こっただけで、目の前が真っ暗になり、祝うどころではなくなるのが私たちの現実ではないかと思うのです。肉の弱さとは、根本的には罪という一言でくくられますが、神の良き作品でありながら、それが機能しないということです。機能しない原因として3つのことが考えられます。①楽をしたい、つまり苦労するよりも何とか楽をしたい、②得をしたい、つまりものごとを損得勘定で考え、対処する、③目先のことを求める、つまり忍耐することができないという3つです。ひと言で言えば利己主義であり、この世の物差しで生きるということです。
◎しかしイエスは家畜のエサ箱に身を置かれました。当時の家畜のエサ箱は、石をくりぬいて造られたものです。イエスが家畜小屋で生まれ、家畜のエサ箱に寝かせられたというのは、汚れた馬小屋の冷たい石のような私たちの心の中にイエスが聖霊として来られたことを証言しているのです。その聖霊は神の力であります。ですから機能不全となっている私たちですが、それがどんな状況であろうとも神の力である聖霊が私たちの中にあって、それを打ち破って下さるということを感謝したいと思います。
◎パウロは洗礼を受けた人たちに向けて、<あなたがたは、かつて罪の奴隷であったときは、今では恥ずかしいと思う実を結んでいました。その行き着くところは死に他ならない。しかし今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは永遠の命です>(ローマ6:21~22)と語っています。私たちは、目を奪われて世の物差しに振り回されてしまいます。パウロはこれを外なる自分と言っています。私たちの外なる自分は、この世の物差しに振り回されてしまいがちです。しかしそれでいい、ありのままの自分であっていい。ただそのことを、私たちの内なる自分に語りかけることです。この内なる自分というのが私たちの内にいる聖霊です。ですから私たちの外なる自分は、人の言葉に振り回されますが、しかしそれをありのままに認めながら、ただただそのことを内なる自分に語りかけ、私たちの中に聖霊に本音を打ち明けていくときに、神の作品としての実を結んで下さるのが聖霊です。ですから必ず聖なる実を結んで下さる聖霊に信頼して、そのことを祈り、永遠の命を約束されていることを信じて、感謝して、これからの一週間を歩んでいきたいと思います。

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