2023年1月1日 聖書:創世記 1章1~2節 「はじまりー無からの創造」 川本良明牧師

◎2023年という新しい年が始まりました。教会ではクリスマスを新しい年の始まりとして祝います。なぜならキリストの誕生によって、神がこの世界の中で本当に新しいことを始められたからです。一般に新年の始まりとして祝う元旦の今日、説教題を「はじまり」としたのは、あらためて神が始められた本当の新しいわざをご一緒に考えたいと思ったからです。
◎先週教会はクリスマスを祝いました。二千年前、天地万物の創造主である神が、イエスという赤ん坊としてベツレヘムで産まれ、神の子でありつつ人間として成長して、人間としての全てを知り尽くされました。そして十字架に死ぬことによって、私たちの罪の報酬である死という借金を、私たちに代わって完全に支払い、すべての人の救いを完成させました。そのイエスを神は死者の中から復活させて天の御許に上げられた後、聖霊として人々の中に住まわせて、キリストを信じる者を教会に集め、罪の支配から解放し、神の国をもたらすための働きを今も続けておられます。そのことを自覚しようとすまいと神は確実にされておられるのです。
◎ところで世の中にあふれている神は皆、人間が考え創り出したものです。そしてその中にあるさまざまな宗教とよばれるものは、後にその行いが立派だったと評価された人を教祖としています。じゃキリストはキリスト教の教祖なのかというとそうではありません。イエスがベツレヘムで生まれたのは昔から預言されていました。また全ての人を救うために苦難の死と復活の生涯を送ることについても、完全に預言されていたのです。ですからその点で世の宗教と決定的にちがっています。しかも昔から預言されていたイエス・キリストの生涯と彼の救いの業は、神が天地を創造する初めから計画されていたことだったのです。
◎新約聖書は4つの福音書の後、使徒言行録が書かれています。これはイエスに立てられた使徒たちの活動を記録しているものです。しかし彼らは特別に優れていた人たちではなく、取るに足りない、人間的に見ればほとんど価値のない人たちでしたが、イエスに選び出され、聖霊に用いられて福音宣教のさまざまな活動を行ないました。聖霊とはイエス・キリストの霊です。つまり使徒言行録は目に見えないイエス・キリストが使徒たちの中で働いて記録された聖霊行伝とも言われるものです。ですから初代教会の人たちにとって、すでに過去の出来事であったイエスの十字架の死と復活の出来事は、決して過ぎ去ったことではなく、聖霊を通して現在のこととして受け留めていました。つまりイエスの死で自分の経験や能力や価値観はすべて無とされ、イエスの復活によって新しい命に生きる者とされ、聖霊の力によって、古いものは過ぎ去り、新しいはじまりに生きていました。
◎彼らはユダヤ人であり聖書--もちろん旧約聖書のことですが--に親しみ、よく読んでいました。しかも復活したイエスご自身が弟子たちに、<私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ず全て実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいた頃、言っておいたことである>(ルカ24:44)と言われました。つまり聖書の中に預言されていたことはすべて実現することを死ぬ前に告げていたというのです。ですからこのイエスの言葉が本当だったことを知った弟子たちは、聖書をイエスが言われたとおりに読んでいました。
◎旧約聖書はユダヤ民族の歴史を書き記しています。その歴史の中で神は聖霊として各個人に関わりながら、神ご自身の目標に向かって働いておられます。聖書は、この神に用いられて「新しい始まり」を経験した個人を数多く紹介しています。アブラハムは75才の時、突然、神から命じられ、妻のサラと旅立ちました。羊飼いのモーセは80才の時、イスラエルの民の出エジプトを命じられました。神から名を呼ばれた少年サムエルは、「しもべいます、主よ語り給え」と答えると、なすべきことを示されました。聖霊が激しく降った少年ダビデは羊を獣から守る道具だった石つぶてを用いて巨人ゴリアテを一撃で倒し、新しい人生を始めています。さらに預言者たちも神の言葉を受けて新しい生き方をしています。このようにイエス・キリストを通してご自分を示された神が、聖霊として働いておられることを信じるとき、聖書こそ最も根源的な始まりを語っていることが分かります。
◎つまり聖書は世界の始まりを、<初めに、神は天地を創造された>と語っています。私たちは何かを造るときは、まず造るものを頭で描き、材料を使って形にします。そのようにまず神がいて、それから神は世界を何かの目標を持って創造したと考えます。ところが人間は、ごう慢にもそこを踏み越えて、「世界を創造する前に神は何をしていたのか?」という問いを発します。そこに十字架の死をもって人間の罪を裁く神への信仰を持たないこの世の姿があります。信仰を持たずしていくら世界の始まりを見出そうとして探り求めても、また世界の始まりの背後に立ち入ろうとしても、行き着くことはできません。結局は、窮極や無限、際限のない輪廻あるいは日本の神話が語るアメノミナカヌシ天之御中主神などの造化三神に行き着くわけで、これすべて人間が創り出す神であり、またこの世の延長線上に始まりを求めているのです。科学の世界でもハッブル望遠鏡やジェイムズウェッブ宇宙望遠鏡をもって宇宙の始まりを求めています。しかしごう慢にも一歩踏み越えると、それほどまでに進歩した技術によって今なお人殺しの武器を造り戦争を繰り返しています。
◎聖書はつづけて、<地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた>と書いています。闇は無に等しいものですが、むなしいものではなく非常に破壊的な力を持ったものです。しかしその上を神の霊が激しく動いており、まさに世界が始まるときに聖霊が闇を覆っていたというのです。そこに希望があります。なぜなら神は、御子の十字架の死によってすべてを裁いて無とし、同時に御子を復活させて新しく創造されたからです。このことを信じるとき、私たちは、聖書の初めの言葉の中に、無から新しい創造という恵みの言葉を聞くことができるし、また神が天地を創造されたのは、イエス・キリストにおいて完成される契約に基づいて創造されたのであると聞くことができるのです。
◎神は天地の創造と同時に時間も造られました。私たちの時間は、始まりがあり、終わりがあります。私たちは、自分の人生を限られた時間の中でただ一回生きています。ところが同じように永遠の神が、イエス・キリストにおいて、この時間の中でただ一回生きるために、始まりと終わりの人生を過ごされました。私たちと同じようにただ一回の人生を生きられたのですが、私たちの人生とは決定的にちがっていました。なぜなら彼は神が人と成ったお方であって、本来死ぬべきお方ではなかったのに死なれたからです。じゃなぜ死なれたのか。それは私たちの罪を贖うためでした。パウロは、<キリストが死なれたのは、ただ一度罪のために死なれたのです>(ローマ6:10)と語っています。神はそのことを明確に示すために彼を死者の中から復活させられました。しかも「ただ一度死なれた」というのは、私たちの罪を完全に贖ったという意味です。私たちのすべての罪は、イエスの死のおかげで完全に帳消しにされたのです。
◎33歳というイエスの生涯はあまりにも短い生涯でした。たしかに神がキリストを通してこの世界の時間を手にしたのはほんの一瞬にすぎません。しかしそれは永遠が時間と接した一瞬であって、永遠の神は、御子の短い生涯によってすべての時間をご自分のものとされ、天地創造において造られた時間の主となられたのです。ですから神は、私たちの人生においていつも共におられますが、人生が始まる前にもおられるし、人生が終わる後にもおられるということです。この驚くべき恵みを明らかに示されるために、神はイエス・キリストにおいてこの世界に来られたのです。まさに<今おられ、かつておられ、やがて来られるお方、全能の神>(ヨハネ黙示録1:8)こそ私たちが信じる神なのです。
◎元旦を年の初めといいますが、実際の生活の中での年度替わりは4月です。たとえば学校では学年が変わります。高校教師だった私も4月になると受験に合格した新入生が新しい学校生活を始めるのを見てきました。ところがなかなか始まらない子がかならずいました。「自分は他の学校に行きたかったのに入学試験に落ちた」「親から行けと言われた」「家が貧乏だった」だから仕方なくこの学校に来たというのです。自分の能力や境遇また環境などのために仕方なく学校に来たという、その子にとってはとても大きな理由があって、悲観的で後ろ向きの思いがブレーキとなって、新学期が始まってもなかなか始まらんわけです。それを見ながら、「他人や環境のせいにせんで、お前の体はもうすでにこの学校に身を置いているのだから、今の自分をありのままに認め、ここでひとつ新しく始めようと思ったらどうか」と言って、その子の身の丈に立って一緒に歩むということがありました。最近観た映画「ビリギャル」は「身の丈に立って」がどんなことかを教えてくれます。今までしてきたことを終えて、新しいことを始めるということは、なにも学校だけではなく、家族や職場、人間関係など山ほどあります。しかし「ありのままの自分を認める」ことはなかなかできず、どうしても他人や環境のせいにしたり、悪い意味の競争意識に陥って身を破滅させることがあります。
◎あらためてイエスの生涯を見ると、彼の生涯は終生神に栄光を帰し、人間の罪を贖い、体の甦えり、永遠の命という神の賜物を授けるための最大で最高の使命に生きたお方でした。しかも今も聖霊として私たちの中に住んで下さって、聖なる実を結んで下さっています。こういうイエスを知らない世界の中にあっては、一般にめでたいとされる正月も、室町時代の15世紀の人一休宗純が「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と死を予感させる一句を歌っていますが、これが始まりと終わりの間に生きる私たちの現実ではないかと思います。つまりかならずいつかは時間の終わりを迎えます。死を迎えることはだれ一人として避けることはできません。しかしイエス・キリストは、すべての時間の主となってくださいました。その神のおかげで時間の中に生きる私たちは、神のものとして永遠の命につながる道を生きることができる者とされたことを感謝したいと思います。
◎現在、「自分は何のために生きているのか分からない」という若者が増えています。それは人間として生きる目標が土台にないために就職や生活が思うようにいかないのではないでしょうか。しかしこの土台をすえるためにキリストは使命を果たしてくださいました。「世の空しさを知らない者は自分の空しさを知らない者だ」という名言を哲学者パスカルは残しましたが、逆に自分の空しさを知る者こそ世の空しさを知ると思うのです。だから自分の人生を充実しようとする人は、世がいかに空しくとも、その空しさに耐え、それに打ち勝って行くことができると思います。信仰とは自分の空しさを知ると共にそれを埋める力でもあります。もちろんその信仰とはイエス・キリストにおいて現わされた神を信じる信仰です。その信仰によって自分のむなしさを知るということは、同時にそれを埋める力でもあるということです。そのような力を年の始めに願っていきたいと思います。私たちは忙しい毎日を過ごしていますが、忙しいからこそ内なる自分に語りかけ、本音を私たちの中におられる聖霊に信頼して打ち明けることです。打ち明けるということが祈りなのです。「祈りといってもいそがしくて祈る暇がない」と言いがちですが、これは反対だと思います。忙しいから祈れないのではなく、祈らないから忙しくなっているのです。まず神の義と神の国を求めて祈るとき、忙しさもまた目標に向かって生きる喜びと力となっていくのではないかと思うのです。つまり聖霊に打ち明けることが祈りであり、その時にこそ世のむなしさに打ち勝つ力が約束されていることを信じ、感謝して、この一週間を歩みたいと思います。

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