2023年1月8日 聖書:マタイによる福音書18章10~14節「迷った羊は誰がさがしてくれるのか」豊田 護兄 

 先日母を連れて昔住んでいた炭住があった街を見に行きました。もちろん炭住はなくなり、町営の住宅が沢山ありました。それらの住宅も空き家が目立って荒れていました。昔のにぎやかな面影はありませんでした。この町は2度死んだのかと思いました。福丸も宮田も昔の面影はありません。みんな何処へ行ってしまったのでしょう。私の親戚も職を求め東京へ行きました。多くの人がその街を離れどこかへ行ってしまいました。

 多くの人たちが、生活に困り迷ってしまった時誰も探しには来てくれません。役所や行政は親切に探してはくれません。かろうじて訪ねて来た人たちに最低のサービスの話をするぐらいです。昔北九州市で、役所の業績の評価は、できるだけお金を出さずに追い払うことだと分かり、餓死した人が出て問題になりましたが、今も探して訪ねてくれることはめったにありません。

 「自己責任」といういやな言葉があります。私には何もしようとしない人や行政の言い訳にきこえます。私自身今までに数百人以上の生徒に関わってきました。自分を振り返ってみて、どうだったでしょう。迷った生徒を探しに行ったと言えるでしょうか。多くの場合見逃していたような気がします。今とても反省しています。

 教会の大切な役割は、迷った羊を探すことかもしれません。教会に毎日来る人ではなく、来れずに迷っている人を探して、連れ帰すことかもしれません。今の教会にその力があるでしょうか。考えなければならない大きな課題のような気がします

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