2023年1月15日 聖書:マルコによる福音書10章1~12節 「夫妻一体は神の意志である」 川本良明牧師

◎新約聖書にはファリサイ派の人々とイエスとの対立が多く記されています。しかしイエスは、彼らの食事の招待を拒むことはありません。イエスが容赦なく批判しているのは、聖書や律法に詳しい彼らがそれを歪めて受け留め、その結果、神の言葉で人々を縛り、神の恵みを台無しにしていることでした。今日お読みした離婚問題を巡る対立もその典型的な一つです。
 彼らとイエスの決定的なちがいは、彼らが「何が律法で許されているか」と問うのに対して、「何が神の意志であるか」と迫っていることです。イエスは神が人間を創造した恵み深いわざを示して、容赦なく彼らを批判しているのです。
 そしてイエスは神の恵み深い意志を示すために、人間の創造を語っている創世記1章と2章を取り上げています。
◎まず創世記1:27には、<神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された>とあります。「かたどる」とは「互いに向き合う、共に生きる」という意味です。人は互いに向き合い、共に生きる者として神に造られたというのです。このことについて、物語として書かれているのが創世記2章です。
 まず神は人を土の塵で形づくり、神の霊を吹き入れて生きる者とされた後、<人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう>(18節)と言って、彼のあばら骨の一部を使って女を造りました。眠りから覚めた彼は、目の前にいる彼女を見て感動の声を上げます。
 ちなみに感動するアダムにエバは一言も声を出していませんが、じつはエバはあふれるばかりの感動の声をあげているのであって、それが聖書の中の「雅歌」だと解釈する人がいました。
◎それはともかく、イエスは、この神の言葉を背景にして、<それ故、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせたものを、人は離してはならない>と言われました。ここで言おうとしているもっとも基本的なことは、神は人が独りでいるのは良くない、人間を独りにはさせないということです。
 このことは、イエスを見すえるならもっとはっきりしてきます。というのは、まもなく十字架につけられて死ぬことを前にして最後の食事をしたとき、イエスは弟子たちに、<私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る>(ヨハネ14:18)と語っているからです。そして事実彼は、復活して彼らの所に戻ってきました。
◎このように神は、天地創造の初めから人間を交わる存在、他者に開かれた存在として造られました。しかも創世記1章、2章で人間の創造を終えたとき、神はそれを見て、非常に喜び、祝福されたのです。
 しかし人間はこの恵みの神にかかとを上げ、その結果、他者との間柄も対立するようになったことが創世記3章に書かれています。まず自分自身を恥じるようになり、二人の関係が崩れていき、神から問われたとき、「あいつのせいで自分はこうなったのだ」と互いに言うようになります。
 このように人間は、神のすばらしい作品としての姿を自ら台無しにしました。そこで神はモーセを通して十戒を授けました。この掟によって人間の罪を明らかにし、罪で暴走して破滅するのを歯止めし、本来の人間に回復するようにされました。
◎それでイエスは彼らに、「モーセは何と命じたか」と問うて、十戒の中の<姦淫してはならない>という掟を答えさせようとしました。そのことは、ファリサイ派たちとの問答が終って家に戻ったとき、弟子たちに、「妻に対する夫の姦通の罪と夫に対する妻の姦通の罪」(11,12節)を語っていることから分かります。
 ところがファリサイ派の人々は、申命記24:1~4にある掟を引き合いにして、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。つまり彼らは「どんな場合に夫は妻を離縁できるか」を問題にしているのです。彼らの教えによって起こっている一例をあげれば、「料理の時に焦がしたら離婚できる」といった具合です。
 彼らは神の言葉を歪めて、「何が律法で許されているか」と問うているのですが、これに対してイエスは手厳しく批判しました。その規定は、離縁状なしに家から出された女性は、再婚できないために陥ってしまう苦しみから、女性たちを保護するために設けられたものでした。つまり申命記の掟は、離縁状があることによって、離縁された女性が正式に再婚できる道を開いているのです。
◎<あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ>と語るイエスに注意したいと思います。
 律法は神がモーセを通して授けたものですが、その神がイエスご自身なのです。前回の説教で時間についてふれましたが、マリアから生まれたイエスは、天地創造の時におられたのです。このイエスがモーセに語って、この掟を書くように命じている、だからイエスがこの規定の意味を正しく明確に語れたのは当然だといえます。
 ですからここで問題となっている結婚や離婚について考える場合、私たちは人と成った神の子イエスから片時も目を離さないでいることが大切です。
 神は私たち人間を交わりの存在として、互いに向き合い、共に生きる者として造られました。それが神の作品という意味です。自分はもちろん他者も皆神のすばらしい作品です。だから他者の中に神を見る、他者の中にイエスを見ることによって、互いに交わりの関係で生きることができるのです。
◎このことで考えさせられるのは、引きこもりの子どもが30万人もいるという深刻な事態が日本に起こっていることです。本来、他者と互いに交わり、助け合い、共に生きる造られている人間を、他者と関わりを持つことができないようにさせているのは何なのでしょうか。
 昨日、地区の子どもの人権集会があり、犀川教会の池上牧師から教会の保育園の話がありました。その中で幼稚園と保育園は全く課題がちがうといわれました。幼稚園では専業主婦の母親が多く、いろんな行事の手助けなどもしてくれます。
 しかし保育園は子どもを預けなければ働けない母親やシングルマザーがほとんどで、親が子どもと接する時間が保育園の方が遙かに多い。必要なのは子育ての時間の確保だ。また不適切保育といえば、過保護や画一的な保育のために子どもの発達を妨げることなどだったが、最近は「不適切だ」といいながら実際に行政が行なっているのは、報告書や研修の押しつけであって、そのため子どもとのつながりを持つ時間がかえって少なくなっている。必要なのは子育ての時間が多くなる政策が必要である。また保育士たちがゆとりを持って適切な保育ができるように保証することが必要なのに逆行している。このために親が子どもに厳しく当たるとか保育園の中でも保育士が子どもに暴力を振るうとか、親も保育士も追い詰められている実態をお聞きして考えさせられました。
◎人間が人間らしく生きるために、イエスの言葉、聖書の言葉、神が示している人間の在り方を聞かなければならないと思います。しかし私たちは、自分の力ではどうすることもできない現実に直面して、「なぜだ、こんな理不尽なことがなぜ許されるのか!」と叫びたくなります。そして私たちは、人間として当然理不尽なことに抵抗し、立ち向かって行くことが多々あります。
 しかし私たちは、単に人間であるだけではなく、キリストを信じる者です。キリスト者でありたいと願っている私たちは、理不尽なことにぶつかったとき、抵抗し、立ち向かって行くことを断念し、忍耐が求められていることを忘れてはならないと思います。
◎つまりⅠペトロ2章23節が語っている<ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになった>イエスの姿を見すえるとき、同じⅠペトロ3章9節で、<悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです>と勧められています。
 さらにローマ12章19~21節で、<自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。>とあります。
 そして積極的に、<そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを>と語られています(ローマ5:3~4)。じつに私たちは、希望を抱いて世の悪に対峙することが許されているのです。そればかりか聖霊の実にあずかって、キリスト者として聖められていることが約束されていることを感謝したいと思います。

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