2023年2月5日 聖書:マルコによる福音書3章20~30節 「悪霊と聖霊」岡田博文兄

 主イエスは、弟子となったシモンとアンデレの家に戻られると、また群衆が駆けつけて来て、食事もできないほどでした。そこへ主イエスを全く理解しない2組のグループが現れました。
 身内の人たちは、「あの男は気が変になっている」という噂が立っていたので主イエスを連れ戻しにやって来ました(21節)。「気が変になっている」という言葉は、ギリシャ語の「エクセステー」で
「エクスタシー」という英語になった言葉です。「自分の外に出てしまう」「我を忘れる」「恍惚状態になる」「おかしくなってしまう」という意味です。身内の者から見れば、我を忘れたおかしくなった人間が出て来ることは身内の恥だと思うのです。だから取り押さえて、連れ戻そうとしたのです。
 次に登場する「エルサレムから下って来た律法学者たち」(22節)も同じです。マタイ福音書12章24節では、ファリサイ派の学者となっています。彼ら律法学者は神のことは自分たちが一番よく知っている。信仰の世界は自分たちが支配している。何か分からないことがあったら、いつでも聞きなさい。私が答えてあげるからというのが学者です。
 主イエスが悪霊を追い出したことは誰もが認めざるを得なかった。疑う余地はない。しかし、その主イエスが神から来た人であることを絶対に認めようとはしません。じゃあ、問題はその力がどこから来るのか、ということでした。悪霊の力なのではないかと考えたのです。
 では、「悪霊」とは何か。異教の神々(偶像)を軽蔑した表現です。偶像礼拝と悪霊とは密接な関係があります。使徒パウロは、「偶像に献げる供え物は、神ではなく、悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊(複数)の仲間になってほしくありません」(コリント信徒への第一の手紙10章20節)と記しています。つまり、悪霊とは偶像の神なのです。偶像に献げ物をすることによって悪霊と交わる者になると語っています。そしてここに出て来る「ベルゼブル」というのは元々異教の神の名前であり、「悪霊の親分」です。
 律法学者は確かに主イエスの力に驚くのですが、それが神から来たことを到底認めたくない。ですから、「『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言った」(22節)のです。
 これに対して主イエスは「悪霊が追い出される」、つまり「悪魔つきという状態から人が癒される」のは決して悪霊の力によるのではない、神の力である、聖霊の働きだと言われました。
 さて、「聖霊」という言葉は、マルコ福音書にはそれほど数多く出て来ませんが、とても重要な言葉です。「聖霊」の「霊」は、ギリシャ語では「プネウマ」、旧約聖書のヘブライ語では「ルーアッハ」と言い、「風」、「息」を表す言葉です。
 旧約聖書、創世記2章7節で「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」とあります。つまり、聖書は人間とは、土の塵という材料で作られ、そこに神様の「命の息」が吹き入れられたものだ、と語っています。ですから、神様が「命の息」を取られると、「息を引き取る」、死ぬ、ということです。
 古代の人々は、目に見えないが何か大きな力があるものをこのように呼んだのでしょう。「聖霊」とは、最も素朴な考え方では、「目に見えない神の力」といったら良いでしょう。
 ヨルダン川で洗礼を受けられた時から(1章9節以下)、主イエスの活動はずっと聖霊に導かれています。主イエスの神の御業、癒しの御業に対して、パリサイ派の律法学者たちは「ベルゼブル」、
「悪霊の親分」の働きだと強く非難しました。
 主イエスは弟子たちを呼び寄せて、譬えを用いて語られた後、彼らの非難に対して、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う」(29節)と言われました。
これは悪霊を追い出す主イエスの上に働いている神の力を冒涜する、だけでなく、それぞれの人の中で働いている神の力、自分の心の中に直接的に働きかける神の働きを冒涜することだ、と言われたのです。目の前で起こっていることが良いことなのか、悪いことなのかを見分けるのは、この神の働きによるのです。その神の働きにさえ心を閉ざすなら、救いは永遠にあり得ないということです。
 使徒行伝2章によると、聖霊はキリストの十字架と復活の出来事の後に私たちに与えられています。これはキリストと聖霊との密接な関係を示すものです。聖霊はキリストの救いを私たち人間に伝えるものです。聖霊はキリストの霊ですが、人間の宗教的興奮や霊的体験というものが、すべて聖霊の導きである、ということはできません。重要なことは、宗教的な経験がキリストとの出会いを成り立たせているかどうかによって決まります。
 使徒パウロは熱狂的な聖霊主義者と対決しました。ですから、コリント信徒への第一の手紙12章3節以下に、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』と言えないのです」と語りました。また「イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない」(口語訳、ヨハネ第一の手紙4章3節)とあります。
 聖霊を受けることは人間が我を忘れて恍惚状態になることではないと戒めています。パウロにとって聖霊とは、キリストとの人格的な交わりを可能にする力です。彼は「キリストにある」と「聖霊にある」を同じ意味に用いています。
 聖霊の働くところに私たち人間は、初めて「イエス・キリストを主である」と告白することができるのであり、そして、そこに教会が成立しました。
 宗教には、神との交わりの喜びを味わい、人へのこだわりやこの世の思い煩いを一切忘れたいという願いが強く働きます。しかし時折、自分の宗教的な興奮や我を忘れた恍惚とした体験を味わうことが第一になる、そして、次第に自分本位な宗教的な興奮や経験だけを追い求めるようになり、信仰の対象であるキリストに聞き従うことがおろそかになる。本末転倒が起こる。それは正しい信仰ではありません。
 聖霊の導きとは、宗教的な興奮ではなく、生けるキリストに導かれキリストと共に日々生きることです。

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