2023年2月5日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「寛容に生きる」川本良明牧師

◎昨年8月の宮田教会創立記念礼拝で、教会の始まりと目標を考えました。十字架に死んで甦えったイエスは、40日間、弟子たちと生活を共にしましたが、そのとき彼は、<自分はまもなく父の所に帰るが、決してあなたがたを独りぼっちにはしない。必ず戻って来る。そのとき私は、私を信じる者の心の中に住むことになる>と約束して天に帰っていきました。その10日後、約束どおりイエスは天から聖霊として降り、聖霊に満たされた弟子たちの力強い説教を聞いて数千人の人たちが洗礼を受けました。これが教会の始まりです。
◎またイエスが聖霊として来られたということは、目には見えませんが、2千年前だけでなく、いつの時代にも、だから今もおられるということです。そして遠いパレスチナだけでなく、どこにでも、だからここにもおられるということです。
 そして、今、ここにおられるイエスは、聖霊として私たち一人ひとりの中に住んで、私たちを神に造られた良き神の作品としてふさわしい者にし、罪深い私たちですが、この罪を贖って下さって、神の国の住民として永遠に私たちと共に生きる者になられただけではなく、やがて目に見える姿で再び来られて、すべてを完成させる終わりの日に向かってイエスは今も働いておられます。これが教会の目標です。
◎それで9月から第一主日に「聖霊の実」を取り上げてきました。<あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です>(Ⅰコリント6:19)とあるように、私たちは神の作品であり聖霊の宮です。イエスも私たちに、<ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である>(ヨハネ15:4)と語っています。
◎これまで聖霊の実として、愛、喜び、平和を見てきましたが、今日は「寛容」を取り上げたいと思います。寛容の「容」とは器のことです。また「寛」とは、心が広く、ゆるやかで、咎め立てせず、異なる少数意見の自由を認め差別待遇しないという意味です。こういう辞書的なことを考えると、寛容とは、(1)大きい器であり、(2)広い器であり、(3)強い器であるということができます。
❶寛容とは器が大きいことである。
〇赤ん坊が呼ばれて振り向くのは自我があるからです。自我とは自分そのもの、命、存在そのものです。名前を呼ぶと振り向きますが、名前は後から自我に付けたものです。名前は自我そのものではなく自我の徴に過ぎません。聖書に、<神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者になった>とありますが、この命こそ自我であり存在そのものです。ですから命、自我、存在そのものは、偶然の産物ではなく神が授けたものです。「子どもは天からの授かりもの」と昔から言われているように、命は偶然生じたものではなく神によって造られたものです。ですから命には、かならず意味があり、目的があるのです。
〇映画『道』の主人公ジェルソミーナは、しがない旅芸人ザンパノに売られ、仕込まれ、ひどい目に遭っていました。そんなとき綱渡りの青年に出会います。彼は小さな石を取り上げて、「この石ころはね、何かの役に立つんだよ、きっと意味があるんだよ」と言うのです。彼女はその石を手に取ると、それからはニコニコ笑ってその石を眺め、手離さないでいつも持っていました。そして彼女は、だんだん強くなっていき、やがて自分を食い物にしているザンパノに、「あんたは私が必要なんよ」と言うようにたくましくなっていくのです。
〇小さな石ころでも何かの意味があり目的があると考えると、私たち一人ひとりの命は天から授かったものとして意味・目的があるのです。もちろん人は、自我=命=存在そのものに知識や感情などいろんなものを付け加えていき、役に立つとか能力といった基準を自分に課していくことで、人間として成長していきます。ところがどうしても私たちは、役立たずではだめだ、ぼーっと立っているだけではだめだ思ったり、弱いよりも強いほうが、遅いよりも速いほうが、低いよりも高いほうが価値があるといったこの世の物差しに流されるようになります。そして、他者と比べて得意になったり卑下したりして、器が小さくなっていきます。
〇しかし、それに気がついたとき、--気がつかせるのも聖霊の働きですが、--その時こそ目を天に向けて、心の中心におられる聖霊に語りかけることが大切です。赤ん坊が呼ばれて振り向くように、聖霊に振り向き、できてもできなくてもいい、どんな過去があってもいい、ああしよう、こうなろうと思う以前に、そこにいるだけでいい、生きてるだけでいいと語りかける聖霊に耳を傾け、ありのままの自分を認めるとき、自我=命=存在自体に聖霊が働いてくださって、気づかないうちに、いつの間にか器が大きくなり、度量が大きく育てられるのです。
❷寛容とは器が広いことである。
〇テトス3章2節には、<誰をもそしらず、争わず、寛容で、すべての人にどこまでもやさしく接する>とあります。しかし次の3節には、<かつては、無分別で、…悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていた>と2節とは真逆のことを書いています。つまり自分もかつてはそうだったけども、今は、争わず、寛容で、どこまでもやさしく接する人間になる、と語っています。「そのようになりなさい」と命じているのではなく、聖霊を豊かに注いで下さって、神が聖霊によって新しく生まれさせて下さると語っているのです。
〇人はなぜ争うのでしょうか。争った後の苦い思いの中で、静かに自分を見つめるとき、何かの恐れから自分を守ろうとして争うことに気づかされます。そして聖霊によってその恐れから解放されるとき、自分を見失うことなく、自分とちがう相手の状況を認めて争わない、広い器にして下さいます。聖霊によって寛容な心を与えられると、これまでは、「なぜそういう風にできないのか、なぜそうしてくれないのか」と問いつめたり、ぶつかってきたのが、「どうしたらその人がそのようにできるようになるだろうか」と、ゆとりをもってそのように考え、その人のことを配慮するようになります。ですから、「聖霊さま、助けて下さい。寛容な心をお与え下さい」と祈りつつ、人に接していくことを繰り返していくとき、このように変えられていくのではないかと思います。
◎寛容とは、器が大きいことであり、器が広いことであると見てきましたが、頭では分かっていても実際にはなかなかうまくいきません。それはどうしてでしょうか。それは器を逆さまにしているからです。茶碗を反対に置いているから、聖霊が入ろうとしても入れないのです。それをひっくり返して--悔い改めて--広い方を天に向けて、その中に天からの恵みを入れていただくことです。
❸寛容とは器が強いことである。
〇この強さとは、石や鉄のような強さではありません。イエスが譬えで、古い革袋に新しいぶどう酒を入れると破れてしまうが、新しい革袋に入れると破れないと語っているように、ぶどう酒が発酵しても破裂しないのは、柔軟で弾力性に富んだ強さがあるからです。つまり状況に応じてしなやかに対応できる強さが寛容です。
〇どうしたらそういう強さを持つことができるのでしょうか。じつは寛容という言葉は、容易に怒らず、堪え忍ぶという意味の言葉です。つまり長い忍耐によって生み出される強さを意味する言葉です。このことで思い出すのは、<苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み、希望は私たちを欺くことはない。聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです>(ローマ5:3~5)というパウロの言葉です。つまり忍耐は、多くの苦難を経ながら人を鍛えていき、やがて鍛えぬかれた品性を生み出します。神との関係なしの忍耐は、ゆがんでいき、いじけた人間になります。しかし神との関係の中で忍耐するとき、そのような品性に到達するというのです。それこそが本物の強さではないでしょうか。
◎以上、寛容を大きく、広く、強い器で見てきましたが、しかし私たちは、寛容な心とはほど遠い、小さく、狭く、弱い器でしかありません。ところがそのために、創造主である全能の神が、人と成って十字架に死んで下さったのです。このイエスを信じ、その死にあやかるとき、寛容な心が与えられるのです。イエスの死にあやかって洗礼を受けるのですが、イエスの死にあやかるとは、自分の物差しやプライド、自分の基準を捨てることです。そして、「神さま、私はやはりだめです。こういう人間です。助けて下さい」とありのままに聖霊に打ち明けて、寛容な心を祈り求めるときに、それが約束されていることを感謝したいと思います。
◎しかし、このことは寛容だけでなく、愛、喜び、平和、慈愛、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の実すべてに言えることです。今、このことで思い出すのは、創世記37章以下にあるヨセフ物語の主人公ヨセフの姿です。
〇この物語は、何度読んでも涙なしには読めません。ヨセフは最初は高慢で弱い人間でしたが、兄たちに憎まれて、エジプトに奴隷として売られ、苦難の道を歩む中で、神に呼び求めながら変わっていきます。兄たちと再会する場面に向かって物語は進みますが、兄たちの姿を見たヨセフは抑えられない気持ちになりながらも、彼に気づかない兄たちを徹底的に追いつめていきます。そして45章ですが、ついに彼らが心を打ち明けて、悔い改めたとき、押さえきれなくなったヨセフは突然泣き出しました。王に次ぐ最高の位の人間が目の前で泣き出したので、兄たちはびっくりしました。ヨセフはエジプト人たちを部屋から出て行くように命じ、兄たちだけになったとき、自分がヨセフであることを明かしし、<「どうか、もっと近寄ってください。」と言い、兄弟たちがそばへ近づくと、「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです。」>と語るのです。
〇彼の姿の中に、聖霊の実が凝縮されているのを見るのです。この美しいヨセフ物語が、私たちにも約束されていることを心から感謝したいと思います。これが、具体的に神が私たちにあずからせると約束している聖霊の実であって、一人ひとりにふさわしい形で結ばれていくということです。もちろんヨセフはイエス・キリストの徴であり、その証人であって、イエス・キリストこそ聖霊そのものであることに変わりありません。共に聖霊を求め、聖霊の実にあずかりたいと思います。

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