2023年2月19日 聖書:創世記 2章24~25節 「夫妻一体は神の意志である②」 川本良明牧師

◎今日の説教題は1月15日の続きです。1月15日ではイエスが創世記1章と2章の言葉を引き合いに出して、神がどんなに恵み深い意志をもって人間をお造りになったかを示すことによって、モーセが許した離縁状を盾にして神の言葉を歪め、神の恵みを無にしている人々を厳しく批判するものでした。
 また、<あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし神は、天地創造の初めから、人を男と女とにお造りになったのだ>と、イエスがモーセや天地創造を語るときのこの迫力ある言葉とその権威は、天から来ており、彼が永遠の神と1つであることを示しているというものでした。
◎そこで今日は、同じ説教題ですが、創世記2:24~25を見たいと思います。<こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる>とあり、突然父母が出て来るので抗議の声が上がりそうです。しかしじつはこれは私たちのことを言っているのです。
 というのは、聖書は神が土の塵で人を造ったことを「土(アダマ)から人(アダム)を造った」と書いてあり、また<人(アダム)が独りでいるのは良くない>と言って人のあばら骨で女を造り、人(アダム)のところに連れて来ます。そこで人(アダム)は「男と女」と呼ぶのです。ですからこれは、子どもは皆父母という秩序のもとで愛が育くまれ、その愛によって大きくなり、やがて他者と互いに愛をもって結ばれていく、と語っているのです。
◎そして、<男は女と結ばれ、一体となる>とあり、<二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった>とあるように、性の問題を避けることはできません。
 性は人を一人ひとり個性ある存在にさせるものであり、また他者とひとつに結ばせていくという大切な働きをするものであると語っているのです。そして、<裸であったが、恥ずかしがらなかった>とは、ありのままの存在を認めて互いに助け合っていくということです。
 しかしそれは罪を犯す前の人の姿であって、私たちの現実は、自分を恥じ、ありのままの存在を隠して生きているのではないでしょうか。しかしイエスは、モーセの離縁状をもって迫るファリサイ派の人々に対しては、この言葉にはふれないで、むしろ、<神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない>と命じています。罪の姿を思い起こさせる言葉にはふれないで、むしろ、このように語っておられるイエスに真剣に耳を傾けたいと思います。なぜなら私たちは、罪の結果、あまりにも悲惨な現実を招いていると思うからです。
◎神は天地の創造と同時に時間も造られました。おかげで私たちは、始まりと終わりがある時間に生きており、幼年から老年までの切れ目ない人生を送るという時間の流れの中で生きています。このような特徴を持った時間を神は造られたのです。
 そればかりか神は、人間イエスとなってこの時間の中に身を置かれました。そして十字架の死をもって短い生涯を終えましたが、同時に神は人間イエスを死者の中から復活させられることによって、ご自分が世の初めから永遠の神であると同時に時間の主であることを示されました。
 このようにして神は、私たちに対して、「自分は母の胎にいるときから神に覚えられており、人生のあらゆる瞬間にも、また人生を終えた後にも、永遠の神が自分の傍らにいつもおられることを信じてもよいし、また信じるように。」と求めておられるのです。
◎ですから過去・現在・未来という時間の流れである歴史についても同じことが言えます。<初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この方は、初めに神と共にあった>(ヨハネ:1~2)とは、<初めに、神は天地を創造された>(創世記1:1)と重なる言葉です。
 イエス・キリストはマリアから生まれる前から、すでに天地創造の際に神のふところにおられました。つまりキリストはすべての歴史の時間におられたのであって、もしもこの方を信じることなしに過去の歴史に目を向けるならば、そこは呪われた、希望のない、茫漠として広がった荒野を見ることになります。しかし時間の主である永遠の神を信じるならば、すべての過去は裁きと赦しと慰めに満ちた意味深い足跡であったことが示されるのです。「歴史とは、人間が人間になろうとして努力した足跡である」と思います。
 そこで人と成った神の子イエスから片時も目を離さないことを肝に銘じながら、しばらく歴史を、それも女性差別の歴史を見てみたいと思います。
◎じつは九州教区では、教会では女性が多いのに教区総会議員や役職は男性が占めていることなどの批判から、女性の存在が強調されるようになりました。そこで女性の意見を反映させるために1994年から1月の第4主日を「女性の日」と定めて、その浸透を図りました。しかしやがて形骸化し、単に女性の起用を求めるだけだと批判され、またある教会で牧師によるセクハラがあり、なんと教会は被害者の女性を責め、牧師を守ることが起こりました。
 これらを契機に2012年から「性差別を考える日」と改められて今日に至っています。そのため毎年パンフレットが教区から送られています。それをもとにして教会で学習を深めていくことは大切です。しかし女性差別を的にして制定された「女性の日」を「性差別を考える日」に改めることによって、女性差別の克服が強まりこそすれ、弱まってはならないと思うのです。なぜなら日本の女性差別の現実は、今なお根強くあるからです。
◎日本史上で女性差別が最もきわまったのは、1603年から始まる徳川時代です。身分制度が確立し、女性差別が格段に強められた時代でした。武士社会では女性は家を継ぐ男子を産むための道具とされました。だから女の子ばかりを産んだり、子どもが産まれない女性を離縁するのは正当化されました。
 離縁状はわずか3行「我等都合により此度離縁致し候、然る上は此後何方へ縁付候共差構無之」で済ませられたのでみくだりはん三行半と言われ、江戸中期以降に一般化されました。しかし三行半が必要なのは庶民の間であって、武士社会では届出だけで足りました。離婚されると女性に働く職場はなく、行き着く先は幕府公認の遊郭である江戸の吉原、京都の島原、大阪の新町、長崎の丸山町などや江戸に多くありました私的な岡場所などでした。女性70人に1人が身売りされていたと言われ、身売りさせられたのは圧倒的に貧しい農民や漁民の子どもたちでした。
◎徳川幕府が倒れ、藩がなくなり、天皇を頂点とする統一した国家になると、欧米諸国に追いつき追い越すために殖産興業・富国強兵政策が進められました。そのため鉄道や鉱工業、造船業や織物工業など近代工業が優先され、また徴兵制度によって国民皆兵の軍隊が作られました。
 しかし労働者も軍人も農村や漁村出身者でした。つまり後に農地改革が行なわれるまで農村は近代化されないで、寄生地主制とよばれる地主制度のもとに置かれたのです。綿工業や生糸・絹織物産業の労働の担い手は貧しい農漁村から借金を負わされて集められた女性たちで、女工とよばれました。戦争が起こる度に輸出産業の花形でありドル箱ですから、労働は過酷になり、労働環境は悲惨を極めました。女工哀史や映画「あゝ野麦峠」で有名ですが、健康優良児の彼女たちの多くが結核になりました。
 江戸時代の女性差別は近代になっても基本的には変わらずに続いたということです。「軍隊慰安婦」制度はこうした日本社会の背景が生み出したといえます。性をモノとして見る男性支配と女性差別を温存させている社会構造が日本の根柢にあると思わざるを得ないのです。
◎今なお続くこうした現実の中にあって、しかし先ほど聖書を読んだように、男と女、夫と妻、性という世界もすべて神の御手の中にあり、神から見捨てられてはいないことを信じることが赦されていることを感謝したいと思います。
 性は神がお造りになったもので、神秘的な力や魔力を持っているものではありません。しかしまた性を汚れたものではなく、神が与えてくださった美しいものです。江戸時代には、身分の違いから愛し合うことが許されず、この世がだめならあの世で添い遂げようと心中する人が絶えませんでした。つまり性には差別をぶっ壊し、身分制度を乗り越えて生きる力を持っており、神はそのような力を与えておられるのです。
 また性は人と人とが向き合い、一つになるための大切な働きであり、人間らしく生きる中心的な役割を持っています。ただし人は辛いことにぶつかると快楽に逃げようとします。それを性に求めれば性は歪められ、人に幻想を抱かせ、空しい現実逃避を繰り返させることになります。性に逃げてはならないのです。
◎ここで神が約束されている「愛」という賜物についてふれておきたいと思います。イエス・キリストはご自分の死をもって私たちを神と和解させてくださいました。私たちの罪を贖い、この方を信じるならば私たちの罪を帳消しにしてくださるだけではなく、罪赦された者にする備えを用意されました。それが愛です。
 愛はすべての律法を含んでいる掟です。ですから私たちが信仰を生み出すことができないのと同じように愛も神が与えて下さり、神が生み出して下さるのです。
◎聖書には愛は二つあります。1つはエロースという愛です。生まれながらにして人間が持っている愛で、肉の愛とも言われます。今1つは神が起こして下さり、神が与えて下さるアガペーという愛です。
 江戸時代にあの世で添い遂げようとして愛し合う二人の愛はエロースの愛であって、永遠の愛とは言えません。結婚式の時の二人の愛もエロースの愛です。本当に美しく希望と信頼に溢れていますが、破れやすく、破壊されやすく、もろいものです。私たちの生まれながらの愛はそういうものです。けれどもそのような私たちと共にあり、私たちを愛されるイエス・キリストは、本当の愛を、アガペーの愛を賜物として用意してくださっています。
 イエスはあるとき、<はっきり言っておく。私の名によって父に願うならば父はお与えになる>と言われました。これは、聖霊を求めなさいということです。聖霊とは、イエスが十字架にかかって死んで復活され、天に昇られた後、約束どおり降った聖霊です。つまり聖霊とはイエス・キリストご自身なのです。
 その聖霊を求めるならば必ず与えられます。そして与えられると私たちの内にアガペーの愛、喜び、平和、忍耐、寛容などを起こされます。その中でも最大最高のアガペーの愛を神は私たちの内に実らせて下さいます。その時、私たちのエロースの愛も、じつに力強く、目的を持ち、方向を失わないようになるのです。「愛を求めなさい、そうすれば与えられる」と命じられているのです。

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