2023年3月5日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節 「親切に生きる」 川本良明牧師

◎これまで「聖霊の結ぶ実」として愛、喜び、平和、寛容を見てきましたが、今日は親切を取り上げたいと思います。以前の口語訳聖書では「慈愛」という言葉でしたが、いつくしみ愛するとは言っても分かりにくいので、今は「親切」という言葉になっています。
 「小さな親切運動」が1963年に東大の総長が卒業式で告示した言葉がきっかけとなって発足して日本中に広がり、今日まで続いています。しかし「~運動」とか「~主義」になると、自発性や自由さを失って義務や強制となり、せっかくの善い業も空しいものになってしまいます。そしてとくに問題と思うのは、差別や悪に抵抗する力や視点を失わせてしまい、人々の不満が爆発する前にいわばガス抜きをさせる働きをするということです。
◎しかし、聖霊の結ぶ実である親切は、まず何よりも自分自身が神の愛で満たされていることが必要です。自分の中に神の愛が十分に満たされていなければ実ることは不可能なのです。なぜなら、私たちが生まれながらにして持っている愛は、たしかに美しいものですが、いかんせん罪のためにもろく壊れやすいものです。
 しかし天地創造の全能の神は人間イエスとなって来られて、私たちの罪という借金を全部支払うために十字架にかけられて死んで下さいました。これが神の愛であり、どんなことがあっても壊れない本物の愛です。この神の愛に満たされるときに親切が実るのです。つまりイエスを信じて委ねるとき、神は私たちの心に親切を実らせて下さるのです。
◎しかし私たちは、罪という借金を十字架の死で全部支払ったことで愛が示された言われてもピンときません。そんなことを百も承知のイエスは、愛を分かりやすく話されました。「迷い出た一匹の羊を捜しに行く話」とか「善いサマリア人の話」などの譬え話がそれです。次にイエスは、言葉と行いによって愛を示されました。彼のたった一言の愛の言葉が、それを聞いた人を死から生き返らせて、生き生きとした人生を送らせています。そういう目でイエスの言葉と行いを見ると、なるほどなぁと思わされます。
◎その数多くの中から1つを紹介します。マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書に書かれている中風の人の話です。マルコ2:1以下を見ますと、4人の男たちが中風の人をイエスのもとに運んできました。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「あなたの罪は赦される」と言われました。イエスは、この一言が中風の人には最も必要であると思われたから告げたと思うのです。彼を運んできた4人の男たちにそれがどんな影響を与えたかは分かりませんが、少なくとも中風の人は、イエスのこの一言で死から生き返って新しい生き生きとした人生を送る者に変えられたと思います。この後、イエスにつまずく律法学者たちに対してイエスは、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示すために、あえて中風の人に<起き上がって、家に帰りなさい>と言って<起き上がり、床を担いで行く>奇跡を起こされますが、それは二次的なことであって、肝心なのは、この愛の一言だったのです。
◎今1つ、言葉と行いによって愛を分かりやすく示されたのが、弟子たちの足を洗うという何とも忘れがたいイエスの行為です。それはヨハネ13章1節以下に書かれています。<イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。…食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。>
 弟子たちは驚き、何も言えずにいました。ペトロは自分の番が来たとき、やっとの思いで<主よ、あなたが私の足を洗って下さるのですか>と拒みました。するとイエスは、<私がしていることは今は分かるまいが、後で、分かるようになる>と言われました。この「後で」と語るイエスには、今から何が起こるか分かっていました。以前から弟子たちに繰り返し語っていたように、まもなく時の権力者たちの手で十字架につけられて殺され、復活することを言っているのです。しかし十字架の死と復活によって何が分かるのでしょうか。
◎この後のイエスとペトロのやりとりを見るとき、イエスが彼らの足を洗うのは、汚れを落とすためだと分かります。汚れにも、洗えばすぐ取れる汚れもあれば、なかなか取れにくい汚れもあり、また絶対に取れない汚れがあります。
 過ちを犯したとき、自分の間違いに気がつくとすぐに天を仰いで、「神さま、助けて下さい」と訴えて立ち返ること、それが、洗えばすぐに汚れが取れることです。ところがその汚れをそのままにしておくと取れにくくなります。その場合には、真剣に天を仰いで、もっと熱心に祈ることによって、こびりついている悪が洗い落とされるということです。ところが決定的なのは絶対に取れない汚れです。
 これはたとえて言えば癌と同じです。癌を滅ぼすには死ぬ以外に道はありません。しかし死んだら本も子もありません。ところが神はイエス・キリストを通して、癌だけ滅ぼして命が助かるようにして下さいました。つまり死を生み出すのは私たちの罪です。この罪を滅ぼして命の冠を与えるために、イエスは十字架の上で死んで下さいました。イエスが洗い落として下さる足の汚れとは、私たちの罪のことなのです。この絶対取れない汚れを完全に洗い流して清くするという神の愛を示すために、イエスは弟子たちの足を洗われたのです。
◎この後イエスは弟子たちに、<私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない>と命じられました。さらにイエスは、<事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである>(ヨハネ13:19)と言われました。これは分かりにくい言葉です。これはどういうことなのでしょうか。
 この「わたしはある」という言葉は出エジプト記3:14に出てきます。モーセが神の山ホレブに登って、燃える柴が燃え尽きない不思議な光景を見て近づくと、神が現われて、エジプトに行って奴隷となっているイスラエルの民を救い出すように言われました。そこでモーセは、「彼らから、あなたを遣わした神の名は何かと問われたら何と答えるべきでしょうか」と尋ねると、神は、<わたしはある。わたしはあるという者だ。彼らに「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと言うがよい>と言われました。
 私たちは神をヤハウェと呼んでいますが、山田という名は「山の中の田」などの意味があるように、ヤハウェは一般の呼称、「わたしはある」がその意味なのです。そして「わたしはある」というヘブライ語は「生きる、命がある」という言葉です。それが神の名前なのです。だから生命そのものである神は生き物を造られ、それに向かって<産めよ、増えよ、海に、地に満ちよ>と祝福されたのです。
◎「わたしはある」と言われたイエスは、8章で3回も「わたしはある」と自分を指して言っています。つまり永遠の神である天地創造の全能の神と自分が1つである、そして、その永遠の神が時間の主としてこの世に来たのが私であるというわけですから、<事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたは信じるようになるだろう>と弟子たちに語ったのです。
 イエスを通して神は、私たちの時間の主となり、歴史の主となりました。過去-現在-未来という時間の流れの中に生きているのが私たちの時間の特徴ですが、この時間の中に永遠の神が切り込んできて、私たちの時間の主として、今も生きておられることを覚えておきたいと思います。
◎そのことは、14章でイエスが弟子たちに、<私はあなたがたのところに戻って来る>と繰り返し語っていることとも関係します。この時イエスは「引き返す」とか「逆戻りする」という言葉ではなく、「来る」とか「行く」という言葉で語っています。つまり、この世の延長ではなくてまったく別の世界から来る、そこからあなたがたのところへ行くという意識を持って語っているのです。だからこそ聖霊としてイエスは来たのです。
 永遠の神からすべてのものを支配する権限を与えられた栄光のイエスがやって来たのです。それが「聖霊としてきた」ということなのです。いつでもどこでもイエスは聖霊として私たちと共にあって、親切という実を私たちのために結んで下さるのです。しかもそれは決してクリスチャンだけでなく、信仰のない人の中にも降って、その人が気づこうと気づくまいと、その人を用いて親切なことをされるということを覚えたいと思います。
◎今の世の中で起こっていることを考えると心痛むことがあふれています。2年前にスリランカの女性ウィシュマさんが入管で殺されました。その映像の公開を何度も訴えてきましたが、やっと名古屋地裁で公開され、実に残酷な内容を朝日新聞の天声人語が証言しています。本当に心を痛めることがあふれていますが、こういう時だからこそ多くの人が、本当のこと、本物の豊かさとは何かを考えるようになっているのではないかと思います。
 実はこの中にあって、いつの時代にも、神は既に人々の中に働いておられたし、今も働いておられることを、私たちは世の人たちに先立って気づかされているし、またその恵みの言葉を与えられている者として、またそのことを証しする者となるために招いています。そのために真剣に祈り、願い求めたいと思います。
 その意味で、忘れがたい、印象深いお話しを紹介したいと思います。それは先月15日の朝日新聞が載せていた映画監督山田洋次さんの思い出話です。
〔おでんを食べるとき、まずちくわを探すという癖が僕にはある。ちくわには遠い昔の忘れられない思い出があるからです。前にも話しましたが、旧満州からの引き揚げ者はみなそうだったようにわが家は生活難で食べるのにせいいっぱい、中学生の僕も学費稼ぎでいろいろなアルバイトをしました。その一つにちくわの卸売りがありました。…自転車の荷台に載せたミカン箱に50本から 100本のちくわを積んで売り歩くのだが、きれいに売れる日ばかりとは限らない。ある日、大量に売れ残ってしまった。…そこで考えたのは、川を越えて隣町に行くと私設の草競馬場がある、そこの屋台店で買ってくれないかということでした。…一軒の屋台のおでん屋に入って白い割烹着のおばさんに「ちくわを買ってくれませんか」とおずおず言うと「坊やは中学生かね」と聞くので、引き揚げ者なので学費を稼ぐためにアルバイトをしていますと答えたら、おばさんは「残ったちくわをみんな置いていきなさい」と言い、さらにこういう言葉を加えてくれたのです。
 「明日から、もし残ったらここに持っておいで。おばさんがぜんぶ引き取ってあげるけえ」。
 僕は今でもそのときのことを思い出すと目頭が熱くなる。幸せとはそういう瞬間のことじゃないかと思う。荷が軽くなった自転車をこぎながら涙が出て仕方がなかった。よし明日からは売れ残っても心配ないんだ、ということより、おばさんの思いやりのうれしさ。おばさんは軽い気持ちで言ったのかもしれないその言葉は少年の僕にみずみずしい勇気、生きる希望すら与えてくれたような気がしたものです。その後二度とその店に行くことはなかったけど、僕にとってあのおばさんは女神のような存在です。〕こう語った彼は、最後に、〔ただ、監督になってからずっと思い続けているのは、あのおばさん、競馬場の屋台店で働いていたあのおばさんが見て「訳がわからないよ」というような映画は決して作りたくないということです。〕
 彼の言葉と体験を聞きながら、たしかに彼のいろんな映画の根柢にそういうものがあるんだなぁと思いました。このように親切という聖霊の実を、神はいろんなところでその人その人に与えて働いておられることを気づく力を私たちに与えてくださいます。そしてそのことをその人や周りの人に証しをし、指し示すことが求められています。それは大きな恵みではないかと思うのです。

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