2023年4月2日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節 「善意に生きる」 川本良明牧師

◎私たちは体力と気力と霊力の3つの力で生きています。体力は栄養と運動と睡眠で養われます。気力は魂とか精神と言われますが、知性と感情と意志の働きです。
 体力も気力も自分の中から出てくる力、つまり下から出てくる力ですが、最も大切なのは霊力です。それは上から与えられる力、つまり神が与えてくださる聖霊の働きのことです。「上から」とは言ってもそれは「神から」という意味で、聖霊は手の届かない私たちの命の中心におられます。
 リンゴでたとえれば、皮の部分が体力、実の部分が気力であれば、聖霊は中心の種の部分です。聖霊は、神とのつながりの中にあって、体力や気力に働きかけて、万事が益となるように働いて下さるお方なのです。
◎「意識が存在を決定するのではない、存在が意識を決定するのだ」というのは、たしかに1つの真理を語っています。意識を形作るのは、その人が身を置いている所、生活環境や行動がであって、その逆ではない。言葉よりも行動が大切であり、行動の伴わない言葉は無意味で空しい。あるいは別の言い方をすれば、知識は体験によって血となり肉となるのだ、と。
 しかし、これらは、神の言葉については当てはまりません。聖書の言葉を暗記することは大切ですが、それが自分の血となり肉となるのは、体験によってではなく、聖霊の働きによるのです。病床などにあってもどんな状況にあっても、神の言葉は存在と意識を越えて血となり肉となります。なぜなら、それは神がなさることだからです。だから私たちに必要なのは、神に祈り、神に委ね、神に信頼し、異なる福音や神の言葉を歪めることに抵抗して信仰告白することです。
◎存在と意識、行動と言葉、知識と体験が一致しているのが聖霊の実です。イエスが、<私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。私につながっていれば、あなたがたは豊かに実を結ぶ>と言われた実、それが聖霊の実です。それは先ほど読んだ9つの「霊の結ぶ実」の他にも、忍耐・謙遜・真実・信仰・希望など数多くあります。これまで愛・喜び・平和・寛容・親切を見てきましたが、今日は「善意」を考えたいと思います。
◎善意といっても分かりにくければ、その反対の悪意を考えて見て下さい。ドラマ「水戸黄門」を途中から見ても誰が悪人で誰が善人かはすぐに分かります。このように善の反対は悪、善意の反対は悪意と考えるのは大変分かりやすい。
 しかし聖書ははっきりとこれを敵意と呼んでいます。敵意とは、神から離れていることで、それを聖書では罪とも言います。罪とは法律を犯したことや道徳的に正しくないという世間一般的なことではありません。敵意とか罪というのは、神を認めない、神を物差しとしないで自分を物差しにして生きていること、つまり自己中心ということです。
◎ある時、都エルサレムから来たファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスと彼の弟子たちを見て、「なぜ、あなたがたは昔の人の言い伝えに従わず、手を洗わないで食事をするのか」と言いました(マタイ15:1~20)。つまり、食前に手を洗うという伝統を破っていると言って咎めたのです。
 これに対してイエスは、<あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている>と言って、<この民は口先では私を敬うが、その心は私から遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしく私をあがめている>という預言者イザヤの言葉を投げつけました。これは大変重要です。なぜなら「私」とは明らかに天地創造の全能の神のことであって、もしもイエスにこの神と自分は1つだという自覚がなかったら、これを語ることはできなかったはずだからです。
 たしかにイエスの風貌や身なりは、30才の貧しい石切大工の姿でした。しかし彼はたびたび「私は~のために来た」と語っています。どこから来たのでしょうか。聖書が真実な書物であるのは、イエスが立派だったので後から教祖に祭り上げたのではなくて、すでに700年も前に神が預言して約束していたお方だからです。まさにイエスは神と1つであると自覚しておられたのです。
◎ところがファリサイ派の人々や律法学者たちは、そのイエスを、自分たちの物差しで評価し、さげすみ、憎みました。じつはそうすることによって彼らは、イエスと1つである神に対して敵意を抱き、罪の中で生きていることが暴露されたのです。だからイエスは、<口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す>と言われました。
 あなたがたは、手を洗わないで食事をしているから汚れているとか神に違反していると言っているが、そうではない。口から入るものは腹を通ってかわやに落ちるのであって、人を汚すのではない。人を汚すものは、心の中から出てくるものだ、と言われたのでした。
 ここではっきりと分かるのは、さまざまな種類の悪意は、神に対する敵意や罪から出てくるのであって、イエスが戦われたのは、さまざまな悪意よりも、それらを生み出してくる敵意や罪そのものに対して戦われたということです。
◎このことについてパウロは、分かりやすく次のように語っています。<神は、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした>(ローマ8:3~4)。
 つまり神は、私たちの罪を取り除くために、御子をこの世界に送ってくださった。御子は、私たちと同じ罪深い肉の姿でこの世に来られ、十字架の死において、罪を罪として処罰されたというのです。ですから、このキリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはないというのです。
◎このパウロの言葉を逆に言えば、聖霊に従って歩む私たちの内に善意の心が豊かに満ちあふれるために、イエスは十字架の苦しみを引き受けられたということです。しかもイエスは復活して、天に昇り、聖霊として再び来られて、信じている私たちの命の中心に宿って下さって、そのことを願い求めるならば、私たちの知性にも感情にも意志にも働きかけて下さって、聖霊の実を結んでくださると約束しているということです。
 もちろん、聖霊が善意の心を生み出して下さるのであって、私たちが努力しようとしてもできないことを、神がしてくださるのです。聖霊なる神が実を結んでくださるのですから、自分では気づかないけれども、私たちの子どもが、あるいは孫が、親御さんが、周りの人たちがそれと気づくほどに、自ずからその人が変わるということが起こるということです。
◎ですから、私たちは何をもって人生の目的とするのか、それはまさに神にあって生きるということ、そのような目標を持って生きること、それこそが私たちの人生の意味ではないかと思うのです。今日は「棕梠の日曜日」といって、イエスが馬ではなく子ろばに乗ってエルサレムに入城することを記念する日です。子ろばとは、弱く未経験なものですが、それをイエスは用いられるということです。
◎このことから、なぜ教会に人が集まらないのかを考えたいと思います。教会に人が集まらないのは、世の中が豊かになって目を奪われるものが多いからとよく言われますが、本当にそうでしょうか。それが当たっていないことは、聖書を読めば分かります。<空の空、空の空、一切は空>とソロモンは語っています。このことは、何もかも恵まれて豊かであった人が、言い知れない空しさと孤独の中で、渇き、苦しんでいたことを物語っています。
 また預言者アモスの次のような言葉は、今の時代にも当たっているのではないかと思います。<見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ>(8:11~13)。つまり教会に人が集まらないのは、本当の空しさを知らないからではないでしょうか。
◎昔「鮫」という映画がありました。時は応仁の乱の頃、室町幕府の権威が地に落ちて戦国時代を迎えようとしていました。政治は乱れ、世の中は荒んで、仏教にも救いの力はなく、都は戦に明け暮れていました。その都に「鮫」と恐れられる盗賊の頭がいました。生まれ育った小さな漁村を後にして都に出て来ると、頭角を現し、凶悪な所業をくり返していました。特に寺を襲って、容赦なく略奪していました。当時のお寺は、広大な領地をもっていて、民衆から吸い上げた沢山の農産物を蓄えていたので、強奪の目標にされていたのです。
 あるとき、鮫はいつものように寺を襲いました。その寺の一角には小さな建物があり、中に入ると一人の尼さんがいました。血がしたたる刀を下げて彼は彼女の前に立ち、襲いかかりました。ところが彼女はまったく恐れを見せず、無抵抗で、なすがままに身を任せたのです。彼は動転しました。……彼は何も出来ませんでした。呆然とした面持ちで寺を出て、門の外の通りに出たとき、突然、風景が白黒画面となり、自分の中で何が起こったのか、自分でも分かりませんでした。……
 それからの彼は無口となり、仲間たちも彼の変化に気づきましたが、遠くから見ているだけでした。そして、あるとき、彼は忽然と姿を消しました。はげしい渇きを覚えていたのです。あの尼僧に無性に会いたがったのです。彼は探し回りました。襲った寺に行くともういませんでした。……
 空しい日々を送っていたある日、彼は大勢の人たちが何か教えを聞くために集まっているのを見ました。そして人々が熱心に耳を傾け、目を見すえているその先に、あの尼僧がいたのです! 彼はそっと群れの中に身を置き、耳を傾けました。やがて集会が終わると、なぜか彼は彼女の前にぬかずきました。すると彼女はそれを拒み、彼の手を取り、立ち上がらせ、満面の笑みを浮かべて、彼を迎えたのでした。……映画の最後のシーンは、「鮫」が年老いた尼僧を背負って、海岸の砂浜を皆と一緒に歩いて行く場面でした。
◎空の空なるかな、いっさいは空であるという聖書の言葉を、私たちは、自分のこととしてかみしめるのですが、しかし聖書は、私たちが虚無と死に服しているのは、ほかでもない、神の意志によるものであることを語っているし、またそのことを神は、御子の十字架において示されました。だからこそ、そこに希望があります。なぜなら神は、その御子を復活させられ、私たちを聖霊の宮にして下さるという約束をされているからです。キリストに結ばれているならば、罪に定められることがないばかりか、命をもたらす聖霊が、私たちを罪と死から解放して下さるのです。このことを心から感謝して、この一週間を歩みたいと思います。

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