2022年4月16日 聖書:マルコによる福音書12章26~27節「生きるということ」豊田護兄

人が「生きる」ということの意味は何だろうと、この頃よく思います。年をとったせいかもしれません。春になると花が咲きます。桜に始まり牡丹,藤、芍薬と続きます。我が家の芍薬は祖父が60年前に炭住の小さな庭から持ってきたもので、父から受け継いだ数少ない物の一つです。もうすぐすると花が咲き父を思い出します。

 今日の聖書は、父の葬儀の挨拶の時話したのを思い出させます。スタインベックの「怒りの葡萄」の中にある   「死んだ者の事は、神様がしてくださる。だから今は生きている者の為に祈ろう」  私は生きて何をしたのでしょうか。何か意味のある事をしたのでしょうか。

 父が亡くなる少し前に、母に連れられ珍しくコンサートに来ました。モーツアルトのレクイエムで、ソロを吹く日で。何とか演奏し一人立たせてもらいました。終わってロビーで父がものすごく喜んでいました。それから40年後、娘のコンサートで、ヘンデルの曲で娘がソロを見事に吹き、やはり一人立たせてもらいました。その時父の喜びが何だったのかが分かりました。私も何かを伝えられたと感じました。

 人が生きるということは、親子も含め多くの人と関わることです。そしてなにかを教わり何かを伝えることを繰り返します。最近母から山椒の味噌で食べる竹の子の味とツワブキの煮物味を教わりました。これは伝えねばなりません。全ては日常の小さな積み重ねなのでしょう。特別な事ではなく、その人の生きてきた意味を次の世代に伝えなければなりません。それが何であれ、芍薬であれ山椒おみそであれ。それが生きる意味なのかもしれません。

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