2023年4月23日 聖書:マルコによる福音書4章1~20節「種を蒔かれた地」岡田博文兄

 主イエスは、この譬え話を用いて何を教えられたのでしょう。それは神の国についてです。
主イエスは「時は満ちた。神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)
と宣言されました。「神の国」、より正確に言えば「神の王国」あるいは「神の支配」が主イエスの譬え話の中心です。
 その頃のユダヤ人にとって、野菜や麦の種は自分たちにとって一番身近なもので、どうしてこれらのものが成長するかということを良く知っていました。そこで主イエスは、神の国の教えを聞く人は、どのような態度で聞かなければならないかということを、3節から9節までの譬え話の中で教えられました。
 まず初めに、「道端に蒔かれた種」(4節)とは、主イエスの言葉に聞く耳を持たないファリサイ派やエルサレムの律法学者たちのことです。
 次に、「石だらけで土の少ない所に落ちた種」(5節)とは、主イエスの教えを聞いたある人々は、それを深く理解して自分の内に取り入れようとしなかったために、最初は熱心に主イエスに従おうとしたのに、長続きせず、途中で挫折してしまったのです。
 第三番目に、「茨の中に落ちた種」(7節)とは、多くの人々はせっかく主イエスの教えを聞いて従ったにもかかわらず、この世の雑事や欲望に妨げられて、最後まで従うことができませんでした。
 最後に、「良い地に落ちた種」(8節)とは何でしょうか。主イエスが語られたこの譬え話の本当の意図とは何でしょうか。神の国を宣べ伝える働きが、人々の無関心や誤解や妨害によって思うような成果が見られないことに、焦りや苛立ちを覚えて、気落ちしている弟子たちを励まそうとして、希望を与えるために、主イエスはこの譬え話を語られたのです。
 「涙を持って種まく者は、喜びの声を持って刈り取る」(口語訳、詩編126篇5節)
と詩編に歌われています。神様のなされるすべての働きは、どんなに困難や障害があっても必ず豊かな実を結ぶことが約束されているのです。
 もちろん、それは私たちの力ではなく、私たちの働きを通してなされる神の御業です。
私たちの教会も神様から大いに期待されている「神の畑」です。どんなに無力であっても、
自分本位の豊かな幸せだけを求めるのではなく、自分に与えられている貧しい能力と短い人生を、神と隣人のために捧げて生きる時に、恵みに満ちあふれた、豊かな実を結ぶ人生が、すべての人に約束されているのです。

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