2023年5月7日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「誠実に生きる」川本良明牧師

◎昨年9月の礼拝以来、第1日曜にガラテヤ5:22~23の聖霊の実を6つ取り上げてきました。<神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです>と語るパウロは、<この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼び、この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます>と語っています(ローマ8:14~16)。
 聖霊の実を結ぶとは、私たちの霊である知性や感情や意志が、聖霊によって神の子にふさわしくされるということです。私たちは今、ちょうど春に虫のおかげで受粉した花が秋には実を結ぶように、やがて霊の実を結ぶときが来ることを待ちながら過ごしているのだと思っています。
◎それで今日は7つ目の「誠実」を取り上げます。誠実とは、真心をこめて尽くすという意味で「忠実」の方がわかりやすいと思います。ところで私たちは、人に対して、また神に対してどれほど忠実でしょうか。独りだけなら、また知識にだけとどまっている限り波風は起こりませんが、具体的に他者と関わるときには、自分がいかに忠実でないか、自分のもろさを味わされます。
◎聖書には「私は死んでもあなたについていきます」とイエスに言ったペトロが、危険が迫ると3度もイエスを拒否したことを伝えています。私もそうです。人から批判されたり、お前呼ばわりされたりすると、我慢ができないでカッとなって、逆にそれ以上にやり返す有様です。
 昔、植村正久牧師が、「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよとイエスは言われました」と説教していると、説教に茶々を入れる者がいました。あんまりひどいので話をやめて彼を玄関に連れて行き、「なんで…」と言いかけたら「右の頬をうたば左をも向けよと言われたではないですか」と冷やかされたのでとうとう我慢できず、「何を! 俺のキリスト教はこれだ!」と言って両頬を引っぱたいたということ。苦い失敗談ですがね。
◎忍耐や謙遜であろうという意志はあっても、それを実行する力がないのが私たちではないでしょうか。失敗を繰り返すペトロにイエスは、<シモン、シモン、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、最後の食事の時に語っています。
 だから3度もイエスを裏切ったペトロが立ち直ったのは、彼の力ではなくイエスの信実のおかげだと思うのです。私たちも少しは忠実であることができるとするなら、まずイエスが私たちを信頼してくださっているからだと思うのです。
◎私たちが神に忠実である前に神がまず忠実であるということを具体的に言えば、それは「契約」に対して忠実であるということです。契約は日本人にはあまりなじまない言葉ですが、聖書は契約が始めから終わりまで貫かれている書物です。
 旧約聖書と新約聖書の「約」は契約の約で、神と人間の間で結ばれる契約のことです。ただ人間同士の契約とちがって、まず神が契約を差し出して人間にそれを守るように求めるというものです。聖書は冒頭で「初めに、神は天地を創造された」と語り、続いて万物を造って備えをした後、最後に契約を結ぶ相手として人間を創造したと語っています。つまり神はご自分の栄光の舞台である天地を造って、そこに神の作品である人間を創造されたのです。
◎しかし、私たち人間は自己中心で、<欲がはらんで罪を生み、罪が熟して>神の作品を台無しにしたため、生ける屍となりました。つまり霊は死んでしまい、肉の体となったのです。霊とは神と正しい関係にある存在のことであり、肉とは神との関係が切れて腐って死んだも同然の存在のことです。私たち人間は、本来霊の体であったのに肉の体になってしまったのです。しかしたとえ人間がどんなに契約を破っても、神は契約に忠実であろうとされます。つまり神は、私たちが神に対して忠実であるよりも前に私たちに対して忠実であるお方なのです。
◎しかしそのことを知る前に、生ける屍になっている私たちの有様を見て、神がどれほどに悲しんでおられるか、心を痛め、断腸の思いをもって憐れんでおられるかということを知らなければなりません。有名なノアの洪水のことを「神のいつくしみの涙である」と歌った詩人がいますが、神の人間に対する愛がどれほど深いものであるかということを、聖書を通して、イエス・キリストの出来事を通して知ることができます。そのことについて今から少しふれたいと思います。
◎神は肉となった全人類の中から特別にアブラハムという人物を選びました。そしてアブラハムの子イサクは、父が百才、母が90才の子です。従ってイサクの子孫であるユダヤ民族は、まったく神によって興された民族です。だからユダヤ民族は、どんな苦難に遭っても神に守られています。事実、古代から現在までほとんど人口が変わっていないということは、いつも絶滅に危機にさらされながらも生き続けているということであり、じつに不思議な民族なのです。
◎この民族の子孫の一人として、キリストは誕生しました。ところが神が人と成ってご自分を示されたとき、人々は貧しい身なりのイエスを見て、「彼はヨセフの子ではないか。ナザレから出た田舎者で、ペテン師だ」と言って、彼をキリストとは認めませんでした。とくに指導者たちや聖書に詳しい学者たちは、彼を妬みました。そして十字架にかけて殺してしまったのでした。しかしイエスは、死に至るまで神に従順であって、神が人間を愛するように人々を限りなく愛し、受け入れました。つまりイエスは、完全に忠実な人間として生き抜かれたのです。
◎だからキリストは、私たちの罪のためにこの世に来たのではなく、神と人間の間の契約を完成するために来られたのです。つまり彼は、不忠実きわまりない私たちに代わって、神に対して完全に忠実に生き抜くと同時に、人間に対する神の忠実を完全に成し遂げるために十字架に死んで神の栄光を現しました。
 それゆえに神は、イエスを復活させられました。そして復活してから40日間、弟子たちと生活を共にしたイエスは、やがて<私はあなたがたを独りぼっちにしない。必ず戻って来る>と言われて天に昇られましたが、その10日後、約束どおり聖霊として降ってきました。今月28日の礼拝で守りますが、まさにペンテコステすなわち聖霊の降臨が起こったのです。
◎これまで忠実ということを見てきましたが、契約を決して破らないこと、忠実であることを最もよく現わしているのが愛ではないでしょうか。神の愛もまたどんなことがあっても揺らぐことはありません。ローマ5:8には<私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました>とあり、Ⅰヨハネ4:10も<私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります>と語っています。これらは、私たちが神に忠実である前に神が私たちに忠実であるということを、愛という言葉によって同じように述べています。
◎礼拝の最初に語られた招詞<ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖った。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼んだ>(イザヤ43:1)は、じつに私たちに対する力強い言葉です。
 <私はあなたを贖った>と神は言われ、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの代わりに罪を裁かれてくださったので、私たちはもう罪に定められることはなく、罪から解放されたのです。また<あなたの名を呼んだ>という名は、親から付けられた名ではなく、神の前に記されている本当の名前のことです。
 このことで、在日の人たちが名前によってどんなに苦しんでいるかを思います。本名を名乗ると仕事が無い、馬鹿にされるので隠し、自分の名前のために苦しんでいます。でも神は見ておられ、本当の名前を知っており、呼んでいます。そして彼らをこそ神は味方しておられると思うのです。
 このように神の忠実そして愛が、聖書の言葉を通して具体的に示されていることが分かります。
◎聖霊は、神の敵であった人間の罪を赦し、神の愛に生きる神の作品としての本来の人間にして下さいます。もちろん人間にはできません。しかし神はおできになります。だから「神さま、聖霊をください。今日そのことを聞きましたので、どうか私の内に聖霊をください」と祈ったときに、神は聖霊として私たちの内に宿ってくださいます。
 そして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制、さらに忍耐、謙遜、真実、信仰、希望などさまざまな聖霊の実を結んでくださるのです。私たちにはできませんが、神に委ねて願い求めるならば、自ずからそれが実ってきます。それが聖霊の実を結ぶということです。
◎さらに神は、聖霊の実を、キリスト者だけでなくあらゆる人の中に働いて、その人を神に忠実な人間とし、愛する者とされています。私たちは、そのことに気づくように、証しするようにと、世の人たちに先立って神に選ばれて教会に呼び集められ、洗礼へと導かれてキリスト者となっているのです。
 そのことは過去の歴史を見る場合でも同じです。聖霊は今だけでなく、将来も、いつの時代でも働いておられるのです。ただし神ご自身は変わりませんが人間は時代によってちがいます。今の私たちと江戸時代や奈良時代の人間とはちがいます。真理は不変ですが、真理のその表われ方は時代によって異なります。
 その意味で、戦国時代の一人の人物のことを紹介したいと思います。それはキリシタンの高山右近です。
◎彼は荒木村重に仕えていました。ところが村重が自分の主君の織田信長に謀反を起こしたため、右近は信長と村重の間に板挟みになりました。彼は苦しみ、宣教師にも相談しましたが、結局、神に祈って決心し、死を覚悟して白装束で信長に謁見しました。信長は察知して問いただすと、右近は、「進むべき道は、ひとりのキリシタンとなる以外にありません」と答えました。信長が「それで余と村重、双方に義が立つというのか」と言うと、「もしお許しいただけないなら、この場でご成敗を」「ではそなたは神を奉じて死ぬと申すのか」「はい」「ならば」と言った信長は、刀を抜き放って上段に構えるや、「余はお前を神に渡しはせぬ!」と叫んで振り下ろし、右近の首の直前で刀を止めると、「これまでの右近は死んだ。生まれ変わって余に仕えろ! 右近、お前の決断ひとつで多くのキリシタンが救われるのだ」「ありがたきお言葉、今後、身命を賭して上様にお仕え申し上げます。」
◎戦国の時代の中で神と人に真心こめて忠実であるためにどのように生きるべきか。彼もまた聖霊に祈って、決断したと思うのです。私たちには、聖霊がどのように働かれるのかわかりませんが、まさに聖霊が古い自分を殺し、新しい命に生かすこと、これは洗礼です。高山右近は10才の時洗礼を受け、両親ともクリスチャンです。しかし右近はここであらためて死んで生き返った経験をしているのです。自分を殺して新しい命に生きるということは、ひじょうに大きな恵みです。私たちも今の時代の中で、目標に向かって生きるか、今与えられていることにとどまって尽くして生きるか、いずれにしても上を見上げながら、忠実に歩むことが許されていることを感謝して、この一週間を歩んでいきたいと思います。

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