2023年5月21日  聖書:ローマの信徒への手紙12章20~21節「本当の戦いに勝つために」 川本良明牧師

◎私の住んでいる若松でも最近ではアジア系と分かる人たちを見かけるようになっています。まだ直接話をしたり、関わりを持つことはありませんが、確実に身近になっていることを感じます。一般に民族の事柄については、さまざまな文化の交流や政治経済分野での利権をめぐる紛争などが話題となっていますが、人間的に言えば、日本の中では、欧米人と東洋人を見る目がちがうのではないかと思います。
 これは過去200年間の歴史的歩みによって植え付けられたアジア人蔑視が、いまだに乗り越えられていないためだと思っています。日本の欧米志向は、一方で今行われているG7サミットの顔ぶれに現れており、他方で現在の日本の政策、特に入管の外国人受け入れ政策を見ると、露骨に現れています。
 こうした現実に対して全く関係ないところで信仰生活を送るように、聖書も教会も私たちに勧めているのでしょうか。決してそうではない。それどころか世の動きに対して、私たち以上に関わりを持っているのが聖書なのです。
◎聖書は最初に<初めに、神は天地を創造された>、つまりこの世界のものはすべて神によって創造されていると語っています。そして光、太陽や月や星、空と陸と海、その中に生きる生き物をつぎつぎと造り、最後に人間を造ったと書いています。ところがその後はもっぱら人間のことを書いているので、神が造られた天地自然のことについては見落としてしまいます。
 ところが、実は、聖書はあらゆる被造物の救いを目指しているのです。しかし、そのためにはまず人間の救いが完成されなければならないので、もっぱらこの世の事柄に集中しているということなのです。それについて使徒パウロは、被造物について次のように述べています。
 <被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます>。それはどうしてかというと、<被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方、つまり神の意志によるものであり、だから同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです>(ローマ8:19~21)。
◎「だから被造物は、その時までずっと、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。いや、被造物だけでなく私たち人間も、確かにイエス・キリストを主と告白して神の子とされているのだけれども、完全ではない、やがて完全に神の子とされる日が来る、その時には私たちの魂だけでなく、体も贖われて復活するのです」とパウロは語っています。つまり神は、すべての被造物に目を向けています。だからこそ何よりもまずこの世に、つまり人間の事柄に関心を持っているのです。そこで人間のことに目を向けたいと思います。
◎現在は科学によって、人類はまず夫婦関係から始まり、家族・氏族・部族へと増えていき、今や民族として全世界に広がってきたことが分かっています。そして民族にまで広がっていく過程において、結婚によって血筋が混じり合ってきたし、また衣食住をはじめとする芸術・学問・技術・宗教などのさまざまな文化的な交流をしながら、豊かで多様な民族が形成されてきました。この民族について初めて聖書に現れるのは、創世記10章~11:9です。
◎10章では、大洪水で人類が滅んだ後、現在の民族はノアと3人の息子から始まったとして、それぞれの系図を紹介し、<地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た>とあります。各民族は平和な社会の中で伝統と秩序を独自に形成していき、互いの違いはありながらも対立は見られません。しかし歴史を見れば、自己閉鎖的で反動的な社会となり、堅固な差別構造を生み出しています。日本で長い鎖国体制にあった徳川幕府時代に形成された身分制度のもとで、部落差別や女性差別が歴史上最も強固になったことは、その典型的な例であろうとおもいます。
◎次の創世記11:1~9は、いわゆるバベルの塔物語ですが、民族の問題点を鋭く語っています。同じ文字と話し言葉で心を通わせ、技術革新で幸福な生活をめざしていました。ところが<天まで届く塔のある町を建て、有名になろう>、つまり自分の名を上げ、権威を求める欲望に燃えて、町全体を1つの目的に向けてまとめる指導者が現われたとき、幸福をもたらすはずの技術は、富と権力を象徴する高い塔の建設に用いられ、人の命よりもレンガが大切な社会、つまり人権が蹂躙される社会に激変してしまいました。もちろん批判者は口を封じられました。
 つまり閉鎖的で反動的となり、差別構造が支配する社会の伝統や秩序を打ち破るために高い塔を建てようとする指導者が現れるまでは良かったのですが、革命を起こしてどうなったのか。外に向かって侵略していく社会となったのです。国内で人権が抑圧されると、必ず侵略戦争を引き起こす国家となることは、歴史が証明するところです。そのことが明確になったので、第2次世界大戦後、国際連合は世界人権宣言を採択し、さまざまな人権規約を決めてきたのです。
◎このように聖書は、神に祝福される面と怒りと裁きを受ける面とを語っています。10章では、伝統と秩序が重んじられながらも、自己閉鎖的な反動的な社会となるのに対して、バベルの塔物語では、伝統や秩序を打ち破りながらも、新しく建設された社会は、暴力的で侵略していく社会となっています。
 なぜそうなるのか。それはどちらも自己中心の罪が生み出した結果であり、人類はこの2つの面をくり返しながらも脱け出ることができずに、もがき苦しんできたのではないでしょうか。
◎注目したいのは、バベルの塔物語が10章に比べて短いということです。それは伝統と秩序がもたらした反動的な社会の上にあぐらをかいている官僚や権力者よりも、そうした社会をぶっ壊そうとする革命的な人間の方が真理に近いからであり、しかしそれだけに彼が陥る危険は、官僚や権力者よりもはるかに大きいと語っているからだと思います。だから10章では神は沈黙していますが、バベルの塔物語では語っているのだと思うのです。
◎神は天の高みから地上を眺めて批判するのではなく、<降って来て、塔のある町を見て、言われます。<これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない>。これは悪に対する人間の無力を憐れんでいる言葉です。また<我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させよう>と言っています。これは人間から罪と悪を取り除く決意を語っている言葉です。
 これらは神を知る上で非常に大事な言葉ではないかと思います。つまり神が私たちの現実をどれほど真剣に自分の事柄として受け止めておられるかを知らねばならないということです。そのために神がなさることを考えたいと思います。
◎神はアダムに「あなたはどこにいるのか」と語り、ノアに「箱舟を作りなさい」などと語りかけています。しかし民族には語りかけてはいません。むしろ神が人に語りかけるのは、民族の中で生きている男女や夫婦、親子など、一人ひとりに対してです。そこで民族の現実を真剣に受け止めておられる神は、神ご自身が民族を興そうとされます。そして民族を裁きと怒りから解放して、本来の祝福された民族に回復する戦いを始められます。それが次の12章から始まるアブラハム物語です。
◎神は罪人の一人であるアブラハムを全人類の中から選びました。そして彼の子イサクは、父が百才、母が90才のときに授かりました。従って、イサクの子孫であるユダヤ民族は、まったく神によって興された特別な民族だと言えます。この子孫からキリストが誕生し、彼の十字架の死によって罪の贖いが成し遂げられ、その3日後に復活されました。彼は40日間、弟子たちと生活を共にした後、<私はあなたがたを独りぼっちにしない。必ず戻って来る>と言われて天に昇られました。
 そして、その10日後に約束どおり聖霊として降ってきました。使徒2:1節以下にあるペンテコステの出来事であり、来週の礼拝でふれることになります。
◎この出来事で三千人が洗礼を受けて教会が誕生し、ユダヤ人キリスト者が増えていき、やがてパウロの異邦人伝道によって異邦人キリスト者が急増していきます。その彼が書いているローマ12:20~21を取り上げたのは、私たちが現実の生活の中で、説教題の「本当の戦いに勝つ」ことと関係があるからです。
 実は、12章は8章からの続きです。9~11章ではユダヤ民族のことを取り上げ、「ユダヤ人はイエスをキリストと認めないばかりか、異教徒の手を借りて殺したのだから、彼らは神から捨てられたのか。決してそうではない。今は神と教会に逆らっているけれども、それは異邦人である我々がすべて救われるまでであり、ユダヤ民族は今も神に選ばれた特別な民族である」と語った後、12章から再び異邦人キリスト者のことを取り上げているのです。
◎つまり異邦人キリスト者は、福音をもとにどのように生きるべきか、現実の生活において「本当の戦いに勝つために」どうしたらよいか、を勧めているのです。私たちは、3Kつまり健康・経済・人間関係などさまざまな領域で、人の命よりもレンガの方を大切にしている不正や不義に直面します。そんなとき、キリスト者として目覚めている私たちは、伝統や秩序を盾にしている人々に対して怒りをおぼえ、それをぶっ壊そうという思いに駆られます。そのことの方が神の御心に近いことに感謝しながらも、同時に危険に陥りやすいことをおぼえたいと思います。
◎そこでパウロは、自分の力で変えようとする誘惑をしりぞけ、聖霊の力にあずかるように勧めているのです。彼は、ローマ12章13節までは教会内でのキリスト者同士の互いの愛の勧めを書いています。14節からは教会外でのキリスト者の生き方として、19節までは消極的な愛を、20~21節は積極的な愛を勧めています。この積極的な愛の勧めこそ反動的で保守的な者たちに無批判に従わないで、しかも革命的人間として抵抗しつつも危険に陥らず、正しく行動するという本当の戦いであって、聖霊の力にあずかってこそできる戦いなのです。
◎しかし、<あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい>(12:20~21)という勧めは、私たちにはとてもできません。むしろ反対のことをしてしまいます。しかしそれでは本当の戦いにはならないというのです。革命を起こして今までの秩序をぶっ壊しても、何年か経つといつのまにか元の秩序に戻っているのは、本当の戦いをしてなかったためではないでしょうか。
◎だから私たちは、キリスト者として、世の人たちに先立って神に選ばれ、聖霊の実を結ぶようにと教会に招かれています。そして聖霊を求めながら「本当の戦いをする」ことが大切なのだと思います。しかし私たちにはなかなか出来ず、自分の力でしようとして失敗しますが、そのたびに祈り求めながら少しずつ前進するのです。しかも神は、聖霊としていつの時代にも、また今も人々の中に働いておられます。そこで、本当の戦いとはこういうものだという、忘れがたく印象深いお話しを紹介したいと思います。それはジャッキー・ロビンソンという人の戦いです。
◎彼は第2次世界大戦後の1947年にアメリカ野球界に黒人選手として入団しました。彼を紹介するのは、アメリカの人種差別と隔離政策は野球界でもすさまじく、その中で戦った彼の戦いは、まさに本当の戦いだったと思うからです。彼をスカウトしたドジャース教団のオーナーが求めたのは、「怒りを抑えること、やり返す勇気ではなく、やり返さない勇気を持つ選手になる」ことでした。そして彼は言いました。「君はこれまでだれもやったことのない困難な戦いを始めることになる。敵のレベルで戦うな。敵に勝つには、優れたプレーをする偉大な選手となり、立派な紳士でなければならない。イエスのように、<右の頬を打たれたら、左の頬を出す>勇気を持つことだ」。その後、彼には想像を絶する苦難が待っていましたが、本当の戦いによって乗り越えていったのでした(参考:映画「世界を変えた男」)。

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