2023年5月28日 聖書:創世記11章1~9節、 使徒言行録2章1~4節「聖霊に満たされた人々」川本良明牧師

◎教会の三大行事は、クリスマス・イースター・ペンテコステです。クリスマスはキリストの誕生を祝う日、イースターはキリストが十字架に死んで三日目に復活したことを祝う日、ペンテコステはキリストが天に昇って10日目に聖霊として降ったことを祝う日です。だから三大行事は皆、イエス・キリストにかかわることであって、どの行事も聖書が伝えている出来事です。
◎使徒2:1~4を読むと、まず<五旬祭の日が来て>とあります。五旬祭とは、ユダヤの三大祭りの一つである収穫感謝祭のことです。過越の祭りから50日目なので五旬祭とか七週祭と呼びます。つぎに<一同が一つになって集まっていた>とある「一同」とは、キリストの弟子たちのことです。
 皆一つの目的のためにエルサレムのある家に集まっていましたが、その目的とは、復活したイエスが40日間、弟子たちと生活を共にした後、天の父のもとに帰る前、「私は決してあなたがたを独りぼっちにはしない。必ず聖霊として戻って来ます」と約束したことです。そしてイエスが復活してから50日目、昇天してから10日目にそのことは起こりました。それが今日のペンテコステなのです。
◎ところがよく読んでみると聖書は、この出来事について深い意味をこめて書いています。というのは「来た」という言葉は「時が満ちた」という語であって、収穫を祝う日と同時にイエスの約束の日が来たという喜びを伝えているからです。
 それは驚くべき出来事でした。<突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった>という出来事です。聖霊の突入という奇跡は、言葉による描写を超えているので、比喩で表現するしかなかったと思います。
◎さらに驚くことは、<聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した>と書いていることです。まず「“霊”」についてですが、霊にわざわざ“”を付けているのは定冠詞付きの霊だからです。定冠詞は日本語にはありませんが、英語で「マン(man)」と「ザ・マン(the man)」は「人」と「その人・あの人」と区別して表現します。ギリシア語でも強調するときに定冠詞を付けます。
 だから「聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに」とは、天から降ってきた聖霊が、私たちの知性や感情や意志といういわゆる人間の霊と一つになった「その聖霊が」語らせたというのです。
◎聖霊は天から降ってくるのですが、それが私たちの中に宿って、私たちの霊と一つになった「この聖霊」によって、私たちが自分から主体的に神に仕えるようになったのであれば、これはもう比喩ではなく、はっきりと人間の内側から溢れんばかりに湧き上がってくる喜びを伝えようとしていることが分かります。
 じつは五旬祭は、<あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、祝いなさい>と定めてあり、単なる収穫感謝祭ではなく収穫の初穂を祝う祭りなのです。それが今、そこにいた一人ひとりに聖霊が降り、“霊”の初穂をいただいたというのです。
 これについてパウロは、被造物は虚無に服して、今日までうめき苦しんでいますが、被造物だけではなく、<“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心から待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです>と語っています(ローマ8:23以下)。だから今、弟子たちは、聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話せる自分に驚き、ついに“霊”の初穂をいただく時が来たと知って、喜びに溢れたのでした。
◎「他の国々」とは、9~11節に書かれている地名のことであって、ユダヤを中心とした離散ユダヤ人の居住地域にあたります。この離散ユダヤ人の歴史は、捕囚時代にまで遡ります。
 かつてエジプトで奴隷であったユダヤ人は、モーセに率いられてエジプトから解放され、現在のパレスチナである約束の地に住みました。ところが神との約束を破って偶像崇拝に陥ったため、国は南北に分裂して対立し合い、大国に滅ぼされ、バビロンに捕囚となって強制連行されたのでした。しかしやがてペルシア帝国が興ると、許されて約束の地に戻った人々によって神殿が再建され、エルサレムが復興されましたが、多くの人々はそこに戻らないでペルシアに定住しました。
 これが離散ユダヤ人の歴史の始まりなのですが、彼らは決して故郷を忘れず、三大祭りにはエルサレム神殿に巡礼を続けており、他民族の中にあっても決して同化せず、会堂を立てて礼拝し、ユダヤ人としての生活をつづけてきました。この歴史的な事実の中に神の深い御計画を思わざるを得ないのです。
◎その御計画とは、全ての被造物の救いをめざして、まず人間の救いを完成させるということです。その救いの完成のために、自己中心の罪のために苦しむ人間世界を引き受ける神の決意が聖書に書かれています(創世記6:6、9:11)。
 人間は、夫婦から家族、氏族、部族へと増えていき、今や民族として全世界に広がっていますが、どの民族も、伝統と秩序を重んじながらも、自己閉鎖的で反動的な社会になっていくし、またそれを打ち破って新しい社会を建設しながらも、暴力的で侵略的な社会となっていき、この繰り返しの輪から抜け出そうとして、芸術や宗教や経済や技術の進歩に頼ろうとしますがうまくいきません。
◎こうした人間の現実を見て憐れみ、真剣に人間から罪と悪を取り除く決意をされた神は、人類の中からアブラハムを選び、奇跡的にイサクを誕生させて、その子孫であるユダヤ民族を興されました。そして神ご自身が興したこの民族を通して、神は世界の民族を、本来の祝福された民族に回復する戦いを始められました。
 すなわち、神は御子キリストを、罪深い肉と同じ姿でユダヤ人の子イエスとして誕生させました。イエスは30才になって公の生涯を2年半足らずで終えますが、人々から捨てられ、憎まれ、妬まれ、十字架にかけられて殺されました。しかし神はそうなることを百も承知です。
 神は人類を罪から救うために送ったのですから、イエスの死によって、私たちの罪を贖い、完全に罪を取り除くことを成し遂げたのです。そのことを全世界に知らせるために、神は彼を復活させました。そして昇天させ、その10日後に起こったのが、先ほど見た聖霊降臨なのです。
◎時はユダヤ三大祭りの五旬祭であり、この日離散ユダヤ人たちも巡礼で来ており、エルサレムは人々であふれていました。ところが聖霊降臨の激しい物音に大勢のユダヤ人たちが集まって来、なんと自分が住んでいる国々の言葉をガリラヤ出身の貧しい漁師たちが話しているのを聞いて驚きあきれました。
 「酒に酔っているのだ」と嘲る者もいましたが、弟子たちを代表してペトロが立ち上がり、「皆さん、今は朝の9時です。この人たちは酒に酔っているのではありません」と言って、大胆にイエスが十字架に殺された顚末を語りました。エルサレムに住み、イエスの死にかかわったユダヤ人たちは、胸刺され、心打たれました。その彼らにも聖霊が降り、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいですか」と言うので、ペトロは、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と勧めました。そこで三千人もの人が洗礼を受けて教会が誕生したのです。
◎ペンテコステは、イエスが約束していたすべての時が満ちて起こった出来事です。時は満ちて、ついに聖霊の時が来たのです。そして伝道と教会の時が来たのです。使徒言行録は初代教会の伝道を記録しているものですが、聖霊言行録とも言われているように、教会は人の力によるのではなく、ただ聖霊の力と活動によって存在する共同体です。その教会に招かれて、聖霊に満たされ、復活のキリストの証人として生きることが許されていることはなんと素晴らしいことかと思います。
◎聖霊は、神の敵であった人間の罪を赦し、神の愛に生きるイエスの似姿に変えてくださるお方です。もちろん人間にはできませんが、神はおできになります。
 私たちは現実の生活のさまざまな領域で不正や不義に直面したとき、それを生み出す構造的な悪に怒り、それをぶっ壊そうという思いに駆られます。そんなとき、自分の力で変えようとする誘惑を「サタンよ、退け」と言って退け、何よりも聖霊の力を求め、聖霊にあずかることです。いつも上に目を向けることです。
◎私たちは、どうしても人と比べることに持って行かれやすいですが、持って行かれるたびに悔い改め、神の右に座しておられるキリストに目を向けて、聖霊の助けを願い求めて歩むことです。パウロは語っています。<“霊”は弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです>(ローマ8:26)。この神の愛に応えて、福音を宣べ伝え、御計画にしたがって神が招いているキリスト者たちが教会に見える時を待ちながら、信仰生活を送りたいと思います。

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