2023年6月4日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「柔和に生きる」川本良明牧師

◎昇天したイエスの約束を心待ちしていた弟子たちにとって、約束どおりにペンテコステ(聖霊降臨)が起こったとき、それがどんなに大きな喜びであったかは、この出来事を説明しているパウロの言葉から分かります。彼は、<この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます>(ローマ8:16)と語っているからです。
 「この霊」とは、聖霊のことです。また「私たちの霊」とは、知性や情緒を感じる感情や意志などです。それは、思想を生み出し、美しさを理解し、文化を生み出す精神であって、魂また精神といわれる人格の中心部分なのですが、根本的には神に敵対しており、神の作品を台無しにしている罪深い肉の命なのです。
◎ところがパウロは、このような私たちの魂また精神と聖霊が一緒になった霊のことを“霊”と書いて、新しく生まれた人たちや悔い改めて神に回心した人たちのことを、<“霊”の初穂をいただいた人たち>と呼んでいます(同23節)。
 そして“霊”は、神と人の間にあって執り成してくださるお方であり、神を愛する者たちのためには、万事が益となるように共に働いてくださるお方であると紹介した後(同26~28節)、神の愛の明確な豊かさと確かさを示しつつ、じつに感動をこめて<どんなものも主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない>と締めくくっています。“霊”によって、自分から主体的に神に仕えるようになったとき、内側から溢れんばかりに喜びが湧き上がっていることが分かります。
◎昨年9月の礼拝以来、聖霊の豊かな実りを求めて、ガラテヤ5:22~23を取り上げてきました。そして、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実を見てきました。その1つ1つの内容を知ることは大事なことですが、何よりも大切なことは、それらが生活の中で具体的に実を結ぶことが約束されていることです。先ほど司会者が、「私たちは、どうしても頑張ろうとしますが、主よ、頑張るのではなく、あなたに委ねることができますように」と祈られたことが、ここでは具体的に約束という言葉で表現されています。そのことをこれまで何度も見てきたわけです。
 パウロが語っているように、聖霊は、天から降って私たちの命の中心部に宿り、罪深い肉の支配下にある知性や感情や意志などと結びついて、言葉に表せないうめきをもって神に執り成して、私たちを神の作品としてふさわしい人間に変えてくださるのです。私たちにはできませんが、神はおできになり、どんな人も、キリストの似姿にあずかれるという希望によって救われるのです。
◎そこで今日は、柔和という聖霊の実を取り上げたいと思います。まず思い浮かぶのは、山上の説教で、<柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ>と語られたイエス・キリストの言葉です(マタイ5:5)。
 柔和とは、体力も気力も弱くて優しいということではありません。それはただ気の弱い柔弱なことです。真に柔和な人は、神に依り頼んで自己主張から解放され、神との交わりによって本当の強さを与えられた人で、人を押しのけたり、俺が一番だと思うことからも解放されています。そういう生き方をした最高の人こそイエス・キリストだと思います。あの十字架の死に敢然と向かっていったイエス、このイエスこそ柔和の模範ではないかと思います。
 しかも柔和な人は、神から多くのものをまかされ、それを生かすことができます。「小さなことに忠実な僕には大きなことをまかせる」とイエスが譬えで語ったように(ルカ19:11~19)、柔和な人は地を受け継ぐことになるのです。
◎じつは山上の説教は、「~しなさい」と言っているのではなく、「~となるであろう」という未来形で書かれてあり、聖霊の実として結ばせるイエスご自身による約束の言葉なのです。だからイエスご自身が、<私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる>と語ることができるのです(マタイ11:29)。
 当時の律法学者やパリサイ人たちは、神から授けられた律法をさまざまに解釈し直して、多くの規定を加えて定めて、それによって律法を重荷にしてしまっていました。しかしこのことは現在も同じではないでしょうか。
 親や教師が「がんばれ、もっとがんばれ」と言っています。これは人間を成長させるために善意で言っている面もあります。しかしそれは「もっと便利で、もっと速く、もっと、もっと」という科学進歩教の価値観を受け入れ実践しているのではないでしょうか。そうした世の中の物差しで生きてきた、ごくありふれた役人の姿を、つい最近、市の生活保護課の窓口で拝見しました。社会的弱者に重荷を負わせることを使命としているような対応に強い怒りをおぼえたのですが……。
◎柔和なイエスで思い浮かぶ最も有名な姿は、子ろばに乗ってエルサレムを入城したときの姿です(マタイ21:5)。<シオンの娘に告げよ。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」>(ゼカリヤ9:9~10)。この出来事は、旧約聖書に書かれている預言者ゼカリヤが語っている預言の言葉です。
 しかし彼が活動した時期は、バビロン捕囚から帰還してエルサレム神殿が再建されるときでした。彼の預言は裁きと祝福を中心とするもので、9章は約190年後のアレクサンドロス王の出現によって具体化されます。つまり軍馬と流血によって建てられたアレクサンドロス帝国とは対照的に、平和の象徴であるろばに乗って入城するメシアこそ地上の平和をもたらす王であると描いています。
 そしてこれは、子ろばに乗ったイエス・キリストのエルサレム入城によって完全に実現した、と新約聖書は証言しているのです。
◎先ほどの生活保護の役人にかぎらず、損よりも得を求め、不便よりも便利を、弱さよりも強さを、遅いよりも速いことを求めるこの世の価値観が、平和を壊し、対立と憎悪、戦争へと向かって行くと思うのです。それはロシアだけではなく日本も、否、私たちもそういう価値観に生きているのではないでしょうか。
 しかし聖書は、その十字架の死によって、地上における神の国実現の土台をイエスご自身が打ち建てたのであり、王の王であるイエス・キリストこそ世界平和への現実的な希望であると語っているのです。
◎私たちは、その揺るぎない土台の上に立って福音を宣べ伝える使命を果たすために教会に招かれています。これまで、柔和なお方であり、また私たちに柔和な実を結んで下さるイエスを見てきました。この神の愛を知り、愛を受け、愛されていることを知っている私たちだからこそ神は、「柔和であれ」と勧めておられるのです。それは私たちが自分の力でするのではなくて、神が聖霊の実を結んでくださることを信じて委ねるがゆえに、神は私たちに勧められるのです。そこで「柔和であれ」と勧めているのを書簡から聞きたいと思います。
◎ガラ6:1、エフェソ4:2、コロサイ3:12、Ⅱテモテ2:25、テトス3:2、ヤコブ3:13、Ⅰペトロ3:16です。

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