2023年6月18日 聖書:使徒言行録2章41~42節「教会の誕生」川本良明牧師

◎先月の28日に教会は、教会の三大行事の1つであるペンテコステを祝いました。三大行事とはクリスマスとイースターとペンテコステの3つですが、ペンテコステとは、キリストが十字架に死んで三日目に復活し、40日間弟子たちと共にいた後、天に昇り、聖霊として降ってきたのを祝う日です。
 聖霊が天から降ったとき、それを待っていた人たちは、大きな喜びに包まれました。それは単に聖霊が彼らの上にとどまったからではなく、聖霊が生命の中心部に宿り、彼らの魂と結びついてそれを動かし、導いて、彼らの全存在を新しく生まれ変わらせてくださったからでした。
◎時は五旬祭の日であって、都エルサレムには大勢の人が溢れていました。ところが聖霊が降臨したとき、激しい物音が起こったので人々が集まって来ました。その彼らに向かって、イエスの弟子たちの代表格ペトロが立ち上がって、大胆にイエスが十字架に殺された経緯を語りました。この長い説教が使徒言行録2章14節以下に書かれています。
 その最後で彼は、<私たちが(! 彼をはじめ弟子たちは皆、逃げてしまい、結局はイエスを見殺しにした私たちも、イエスを殺したのだという自覚をペトロはもっていました)殺したイエスを、しかし神は復活させられました。私たちはその証人です。イエスは神の右に挙げられて、約束の聖霊を注いでくださいました。あなたがたが見ての通りです>と語りました。
 すると、そこに居合わせたユダヤ人たちは、自分たちもイエスの死にかかわったことを自覚していたので、ペトロの説教に胸を刺され、心打たれ、「兄弟たち、私たちも仲間に加えてくれ」と申し出ました。そこでペトロが、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と告げると、それを受け入れ、三千人もの人が洗礼を受けて、教会が誕生しました。
◎そこには巡礼に来ていた大勢の離散ユダヤ人たちがいました。彼らは、かつて偶像崇拝の罪を犯したために神に裁かれ、遠くバビロンに捕囚となってそこに定住し、その後も各地に広がっていき、今はローマにも住んでいるユダヤ人の子孫でした。この離散ユダヤ人たちは、他民族の中にあっても決して同化せず、二度と偶像崇拝をすることはありませんでした。そして父なる神を信じて、会堂を立てて礼拝し、それを中心にしてユダヤ人としての生活をつづけてきました。
 この歴史的な事実を見るとき、神の深い御計画を思わざるを得ません。その計画とは、罪のために苦しんでいる人間世界を引き受けるという神の決意です。そのことを神は洪水前にノアに、<私は地上に人を造ったことを後悔している。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も地上からぬぐい去ろう。しかしお前と家族だけは箱舟を造って生き延びよ>(創世記6:6節以下)と語り、洪水後には、<私は二度と洪水によって地を滅ぼすことはしない。その徴として雲の中に私の虹を置く>(同9:11節以下)と語っています。その後、ノアの子孫から人類が起こり、現在の人類はノアの子孫であると聖書は語っています。
◎この物語をそのまま信じる人もいますが、これは1つの神学的な解釈であると思います。しかし、いずれにしても神は、真剣に罪と悪を人間から取り除く決意をされたのです。その具体的な決意の表れとして、全人類の中からアブラハムを選び、彼の子孫から民族を興しました。これがユダヤ民族であって、神はこの民族を通して全人類を救う計画を実行するために、この民族の子孫の一人として、つまりキリストとして来られるということを約束されました。
 離散ユダヤ人たちは皆、この信仰に立っていました。つまり神はアブラハムの子孫である我々ユダヤ民族の中にキリストとして来られるという約束と希望を彼らはしっかりと持っていました。たとえ世界中に散らばったとしても、離散ユダヤ人たちは、この約束と希望に生きていたのです。ですから今ペトロが語っている内容と、また目の前でガリラヤ出身の人々が、自分たちが住んでいる国の言葉でこの神のみわざを賛美するのを見て、大変な衝撃を受けたのでした。
◎聖霊が降って、その物音で集められた離散ユダヤ人たちが知ったのは、ついに神がキリストとして来られたということでした。しかもそのキリストは、彼らの予想とはまったくちがって、罪深い肉と同じ姿でユダヤ人の子イエスとして誕生したのであり、そのイエスが30才になって人々から捨てられ、憎まれ、妬まれ、十字架に殺されたのは、自分たちの罪を贖い、完全に罪を取り除くためであったのであり、神はそのことを全世界に知らせるために、彼を復活させ、神の右にあげ、今、聖霊として世に降って来たことを知ったのでした。ですから今、彼らも聖霊を受けて、洗礼を受け、ここに教会が誕生したのです。
◎今私は「教会が誕生した」と言い、説教題も「教会の誕生」としましたが、これは誤解を招きやすい言葉です。じつは、教会は、すでに長い間存在していました。それはイスラエル民族の歴史そのものが教会の歴史なのです。それを「イスラエル共同体」と呼んで「キリストの共同体」と区別することができると思います。今私たちが集められている教会はキリストの共同体です。
 福音は、まずイスラエル共同体に伝えられ、数多くのユダヤ人キリスト者が生まれました。ペンテコステの日に三千人の人が受洗して教会が誕生しましたが、全員ユダヤ人です。だから最初のキリストの共同体はユダヤ人教会であり、この教会から次々とキリスト者が生まれていき、イスラエル共同体は福音を土台とするキリストの共同体へと生まれ変わろうとしました。
◎しかし、イエスに抵抗し、排除し、十字架に殺したユダヤ人指導者たちは、キリストの共同体に変わることに激しく抵抗しました。そのため福音は、ユダヤ人世界から異邦人世界へと広がり、多くの異邦人キリスト者が生まれ、彼らが教会で多数を占めるようになりました。しかし、二千年の今日まで活動してきた教会には、ユダヤ人キリスト者が絶えたことはありません。
 つまり教会は、今もユダヤ人と異邦人が共に働く共同体なのです。たとえユダヤ人たちが、イエスをキリストと認めず、御子の死と復活によって示された福音を受け入れないとしても、教会はイスラエル共同体を土台にしています。パウロがローマ書の9~11章において、詳細にユダヤ民族のことを語っているのはそのためなのです。
◎今私たちは礼拝で賛美歌を歌い、祈り、聖書を読んでいますが、これらはすべてイスラエル共同体を引き継いでいるのです。それはキリスト者たちがイスラエル共同体から排除されてキリストの共同体となっても変わりません。先ほど司会者がお読みした使徒2:41~42には、洗礼、使徒の教え、パンを裂く、祈るなどが書かれていますが、イスラエル共同体では、洗礼は割礼であり、使徒の教えは律法や知恵の書から、パンを裂くことは過越の食事で、祈りや賛美は詩編が用いられました。初代の教会は、イスラエル共同体で行われていたそれらを引き継ぎながらも、新しいキリストの共同体として活動していったのです。
◎私たちの教会には1つの目標があります。教会は初代から聖書を、ノアの洪水の後に世界の民族が興り、その中から神はアブラハムを選んでユダヤ民族を興し、この民族の中からキリストが来られるという風に読んできました。そのように希望の書として聖書を読みながらも、更に教会は、イエス・キリストの誕生と死と復活そして聖霊の降臨という出来事によって、神による救いの完成という目標に向かっているという歴史的自覚を持つことになりました。
 このように教会は、イスラエル共同体を引き継ぎながらも、更に新しい目標に向かって活動しているのです。だから聖書は、歴史の神である神ご自身による救いの業とその神の救いの業にかかわった人間の業、つまり神の救いの業と人間の業の記録の書として読むことが大切なのです。
◎歴史の神であり、神は歴史の中で働いておられ、神ご自身が歴史を造り出しておられることを考えるとき、私たちが神の業にかかわるということは、歴史的実存を自覚する者として生きるということです。私たちは、目標なく生きているのではなく、目標に向かって生きているのです。
 歴史的実存を自覚することについて、源頼朝を例にして考えてみたいと思います。彼は源氏と平氏の争いで父親の義朝を失い、伊豆に流されますが、やがて源氏の棟梁として兵を挙げて平清盛亡き平氏を倒し、鎌倉に幕府を開きました。平安時代も後半になると、公家を中心とする貴族たちは、政治を省みず、やれ歌じゃ花じゃ恋じゃと京の都で絢爛豪華な生活を送っていました。その権力維持のために平氏や源氏といった武士を利用しながらも、鴨長明が「方丈記」で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と記しているように、自分たちが歴史的に没落しつつあることを予感していました。
 ところが源頼朝は、その日記の中で「天下草創」と記しています。当時の武士は、貴族からは、けもの以下に見られていました。ところが歴史に対する後ろ向きであきらめ的な貴族とちがって、「俺が天下を造るのだ」という強烈な自覚がこの言葉からは伝わってきます。この自覚こそ歴史的実存であって、古代から中世への転換期にあって、武士の棟梁として新しい時代を切り開いていこうとする彼には、じつに力強く大胆に生きる意欲にあふれています。
◎歴史的な実存の自覚、つまり、私は歴史の中で1つの命として生きているのだという自覚をもつことは、じつに生き生きとなるということを聖書は証言しています。私たちは皆、無意味に生まれ、やがて無意味に死んでいくのではなく、神から命を与えられて、何らかの意味があって今生きていることを自覚し、生き生きと目標を持って生活できることが約束されているのです。その一例を、「天下草創」を自覚した源頼朝に見たわけですが、私たちはそれ以上のことが約束されていることを感謝したいと思います。

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