2023年6月25日 聖書:マルコによる福音書4章21~34節「成長する種~明日を信じて生きる」岡田博文兄

 マルコ福音書を読み続けています。26節からの「成長する種」の譬え話はマルコ福音書だけが伝えるものです。譬え話によって主イエスが解き明かそうとしておられるのは、神の国の奥義です。「神の国」というのは、天国、極楽、パラダイスというような、昔から人々が、この地上のどこかに空想していたような場所のことではありません。「神の支配」という意味です。神が支配され、その御心の行われる所が神の国です。
 ですから、主イエスがおられる所、そして人々が彼を信じて生きる所、そこが神の国です。
主イエスは、「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいるのである」(マタイ18章20節)と約束されました。主イエス・キリストの御名によって祈り、その御言葉を聞き、彼に従って生きる人々が集まっている所はどこででも、目には見えませんが、目に見えるものより遥かに確かな実存として、主イエスは私たちと共におられるのです。
 私たちが日曜日ごとに集まるこの礼拝の中に、主イエス・キリストは親しく臨んでおられます。
 28節には「土はひとりでに実を結ばせる・・・」とありますが、「地はひとりでに実を結ぶ」(塚本虎二訳)と翻訳するのが正しい。「ひとりで」と訳されている言葉は、元のギリシャ語で言うと、アウトマトス(αυτοματος)という言葉です。なぜギリシャ語を持ち出したかというと、英語のオートマティック(automatic)という言葉がここから始まっているからです。
「人間の力が加わらない」という意味です。しかも「ひとりでに」は文頭に置かれており、
28節全体を強調しています。
 種を蒔いた農夫は、寝たり起きたり、普通の生活をしている間に、いつのまにか畑では驚くべきことが進行している。すなわち、蒔かれた種が「芽生えて育ってゆく」のです。
 ひとたび地に蒔かれた種は、植物を成長させる目に見えない力によって、農夫の気づかない間にどんどん成長して、やがて時が来ると豊かな実を結びます。植物を育てるのは、目に見える農夫の働きではありません。その背後にあって、種を成長させる目に見えない働きです。農夫の働きは、第一に「種を蒔くこと」。第二に収穫の時に「鎌を入れること」だけです。
 ところで、この譬え話は、ある特定の状況の中で、ある特定の問題に答えるために語られた譬えであると言われています。
 主イエスが活動し、群衆や弟子たちが集まって来ます。しかし、それはあまりにもみすぼらしい集団でした。「こんな小さな弱々しい集団で一体何になるのか。神の国というにはあまりにお粗末ではないか」という疑問が投げかけられました。その後の初代教会でも度重なる激しい迫害の中で同じような疑いが起きました。それに対して、このような譬え話が力強く語られたというのです。
 人間の目から見れば、神の国というのは、ほとんど目に留まらないような小さな現実に見えるかもしれない。しかし、それは気づかないうちに確かに成長していくのだ。ちょうど、植物が農夫の知らないうちに「ひとりでに」実を結ぶように。そして、この小さな神の国の種から、驚くべき大きな結果がもたらされるのだ、ちょうど、「からし種」の成長のように。
 神の国は、作物を成長させる目に見えない働きと同様に、目に見えない神の支配です。
神の深いご計画のもとに私たちを支え導いておられるのですから、たとい自分の力ではどうすることもできない、先の見通しが全くつかないような困難に出会っても、私たちはいつも、もっと良いことが、神のご計画のもとに用意されていることを信頼して、焦ることなく、希望を失うことなく、「明日を信じて生きる」ことができるのです。
 主イエスは、「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだら、豊かに実を結ぶようになる」(ヨハネ12章24節)と言われました。
 主イエスは福音の種を蒔くためにこの世に来てくださいました。
主イエスは神の国のために一粒のからし種、一粒の麦として、ご自身の生命を十字架に捧げられました。そして主イエスの弟子たちも、代々の聖徒たちも、命をかけて神の国のために一粒のからし種になろうとしました。このようにして神の国は世界中に広がりました。
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)

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