2023年7月2日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙5章22~23節「節制に生きる」川本良明牧師

◎これまで愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和を見てきましたが、これら8つの言葉は皆、結び合わせていく、作り上げていく、積み上げていくといった面をもっています。ちょうどいろんな色の縦糸と横糸が織りなされてすばらしい布ができあがっていくように、私たち一人ひとりの内に結ばれていく聖霊の実を表わす言葉だと思います。
 ところが最後の節制という言葉は、結び合わせたり、作り上げたり、積み上げるのではなく、絶つとか切るという意味です。欲望が起こってくると度を超さないように理性で制御したり調節します。また規律正しく節度を守ります。そのように節制とは、自制する、控える、慎み深くあるという面をもっています。
◎しかし、これは聖霊の働きによって結ぶ素晴らしい霊の実であって、決して否定的な肉の実ではありません。肉の業による実については、ガラテヤ5:19以下に姦淫、わいせつ、敵意、妬みなどを列挙しています。
 パウロは、<肉に従って生きるなら、あなたがたは死にますが、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます>(ローマ8:13)と語っていますが、節制とは、「あれをしてはならん、これをしてはならん」と単に否定するのではなく、1つの目的に向かっていく内容をもっている言葉なのです。
 またパウロはこれを分かりやすく、<競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、私たちは、朽ちない冠を得るために節制するのです>(Ⅰコリント9:25)と語り、<他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者にならないために、自分の体を打ちたたいて服従させます>と語っています。艱難や苦しみ、迫害や飢えなどを受けることはあっても、それら一切は神からいただくすばらしい恵みであるとして、節制を喜びに向かって積極的、肯定的に受け入れているのです。
◎これまで聖霊の実を学びながらいつも示されたのは、<愛、喜び、平和などのどれも自分にはできない、けれども神には何でもできることを信じて、自分で頑張るのではなく、神に委ねていくことで実が結ばれる>ということでした。
 ところが私たちはどうしても自分で頑張ろうとします。それは根本的には神に信頼していないで、神に敵対しているからです。私たちのためにこれほどのことをして下さったのに、なお自分でやろうとする罪のためです。そして罪の結果、人に対しても対立的となってしまうという弱さを私たちは持っています。
 ある学校に県の役人が訪問して授業参観をしました。生徒に地球儀をさして「君、どうして地球の地軸は傾いていると思うかい?」と聞きました。すると生徒はサッと立ち上がって、「ボクがしたんじゃありません!」と言い、教師に聞くと「初めからそうなっていました!」。それで校長に話をするとすぐに事務長を呼んで「だからあの業者に注文するなと言ったじゃないか!」と言いました。
 これは笑い話ですが、人から何か言われると反射的にマイナスに反応し、命令形で聞いてしまうのは、私たちの内にある罪が自分を責めるからです。神ではなくて人を恐れるかぎり、私たちはそれから逃れることはできません。
◎こんな私たちにイエスは「種まき」の譬え話を語られて、そうではないことを示されました。蒔いた種が石地の落ちたので鳥に食べられ、また土が浅かったので、芽は出たがすぐに枯れてしまったと語った後、種は地に蒔かれたが雑草がおおいかぶさって種の成長をふさいだので実を結ばなかったと言って、これは神の言葉を聞いたが、この世あるいは人生の思い煩いや富の誘惑やいろんな欲望や快楽によって福音の実を結ばなかったという意味であると弟子たちに語りました。
 これを聞くと私たちは、だからこれらから逃れるために節制するように求められていると考えます。ところがイエスはそんなことは一言も語っていません。むしろ、<良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、ある者は百倍、ある者は60倍、ある者は30倍の実を結ぶのである>と語って、私たちの心を良い土地にしてくださるのは誰なのか、御言葉を聞いて悟らせるお方を誰なのか。このことを示しながら、神の福音が豊かに実を結ぶ喜びの目標を語っているのです。
 このことは私たちには十分に分かることです。イエスはご自分のことを言われているのです。私に従いなさい。私に委ねなさい。そうすればあなたがたの心は良い土地になって、豊かな実を結ぶことになると招いているのです。
◎同じことは、イエスが洗礼を受けた後に荒野に行かれたことについても言うことができます。なぜ彼は受洗後に荒野に行かれたのか。彼は30代の人間であり、いろんな肉体の欲望があったので、それを自らの理性や精神に従わせるためであったとか、あるいはちょうど釈迦が物凄い苦しみの中で出家して苦行したり、ブッダガヤの樹の下で瞑想したように、この世の真理を悟ろうとして瞑想するためであったとか考えるとするならば、それはまったくそうではありません。
 3つの福音書は皆、<イエスは悪魔から誘惑を受けられた>と書いています。彼が断食の中で父なる神との繋がりを確認するためだったのか、逆に父なる神との繋がりを確認することに集中していた結果として断食となっていったのか、それは分かりませんが、ただはっきりしているのは、神との繋がりを妨げる声が聞こえたということです。悪魔が、<神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ>と言い、高い山に連れて行って<私を拝むなら世界の一切の権力と繁栄を与えよう>と言い、さらに神殿の屋根に立たせて<神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ、天使が守ってくれると神は語っている>と誘惑しました。しかし彼は、それらの声を神の言葉をもって断固退けたのでした。
◎私は入信して間もないとき、神の存在や聖書の真実性などを根本から疑い、信仰を根柢から否定する誘惑に襲われて、3日間飲まず食わずでした。ところが何もかも否定した最後のところでアブラハムが75才で旅立ち、彼の子孫からユダヤ民族が起こり、今なお生き続けていることの不思議さを思い、一か八かアブラハムとユダヤ民族の存在に人生を賭けようと決心して教会に戻りました。
 その後、イサクの誕生の奇跡やユダヤ民族が存在する意味を知りました。そして何よりもセムの系図に見られる希望がユダヤ民族の底に流れており、さらにアブラハム、その子孫として来られたキリストの出来事を知れば知るほど、20才の時に人生を賭けたことは決して無駄ではなかったと思っています。
◎ガラテヤ5:22~23の「聖霊の実」のうちで、最後の節制は他の8つとはちがいますが、御霊の実全体がバランスよく実るのに欠かせない聖霊の働きではないかと思います。つまり節制がなければ愛は実らないし、喜びや平和も寛容や親切なども皆、実らないと思うのです。
 もちろん聖霊の実は他にも忍耐や信仰、真実、練達、謙遜、希望など数多くありますが、<あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿です>(Ⅰコリント6:19)とあるように、私たちは神の作品なのです。聖霊は、天から降って私たちの命の中心部に宿り、罪深い肉の支配下にある魂と結びついて私たちを神の作品としてふさわしい人間に変えてくださるのです。
◎このイエスの聖霊としての働きを考えると、荒野でイエスが悪魔の誘惑を退けたことを思わざるを得ません。イエスが石をパンにしなかった、高い所から飛び降りなかった、神以外のものを拝んではならないと言ってサタンを退けたのは、神の御子でありながら私たちと同じ肉の体にとどまり続けて、十字架で死ぬことによって悪魔を滅ぼし、私たちを悪魔の支配から解放するためだったのです。
 このイエスご自身が私たちに呼びかけているのが、<ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である>(ヨハネ15:4)という言葉です。リンゴや梨など他の木は、幹と枝ははっきりと区別できますが、ぶどうは幹と枝の区別ができません。イエスがぶどうの木を言われたのは、聖霊としてご自分が私たちと見分けが付かないまでに一つになって実を結ぶお方であることを言おうとされたのだと思います。
◎聖霊は、弱い私たちを助けて下さり、御霊の実を結ぶために言葉に表せないうめきをもって執り成して下さいます(ローマ8:26)。このパウロの言葉は、じつに私たちを慰めて下さいます。しかもパウロは、<どのようなときにも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい>(エフェソ6:18)とも勧めています。
 聖霊は、私たちのために執り成して下さるのですが、聖霊は、今度はすべての人のために執り成すことができる者に私たちを造り変えると言っているのです。このことを信じて、感謝をもって、この一週間を歩みたいと思います。

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