2023年7月23日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12節~13節 「キリストの体である教会」川本良明牧師

◎礼拝において告白している使徒信条の第1項は〔父なる神を信ず〕、第2項は〔子なるイエス・キリストを信ず〕、第3項は〔聖霊なる神を信ず〕とあります。第1項と第2項は父と子という神だけを語っていますが、第3項は聖霊という神に続いて「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦えり、永遠の生命を信ず」と、初めて教会と人間が出てきます。つまり教会は、人の力によるのではなくて聖霊の力と活動によって存在する共同体であると語っているのです。
◎とは言っても教会は、抽象的、観念的なものではなく、私たち生身の人間の集まりです。<あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただきなさい>(ローマ12:2)と使徒パウロから勧められなければならないように、教会はたえずこの世の物差しに流されるところです。
 それにもかかわらず使徒信条は、<ワレハ聖ナル公同ノ教会ヲ信ズ>と語ります。現実の教会は俗なる姿であり、私たちはそれを超えた所やその背後に目を向けないで現実の教会を見つめているのですが、信仰の目で見るならば、目には見えないけれども聖なる姿として見えると使徒信条は語っているのです。
◎目に見える地上的な、歴史的な現実の教会の姿の中に隠されている聖なる姿、いわば信仰の目にだけ見える秘密の教会の姿とは何でしょうか。答えは、イエス・キリストの地上的・歴史的な存在の形です。聖書はそれを「イエス・キリストのからだ」と呼んでいます。
 そしてこれについてパウロは、まず目に見える教会を、からだとからだの肢体という比喩を用いて語っています。彼は教会をからだと見、キリスト者たちや彼らの奉仕や証しをからだの肢体と見ていました。
◎先ほど読んでいただいた聖書もその一つです。これは12:4~30の一部であって、教会と教会の構成員たちの関係を、人間のからだとその肢体という比喩を用いて説明しています。そこで12節を見ると、3つの句から成っています。
 ①<体は1つで多くの部分から成っている>、②<多くの部分が1つの体である>、③<キリストは体であり、部分である>という3つです。
①<体は1つで多くの部分から成っている>
 11節には<これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さる>とあり、また13節には<一つの霊によって、私たちは、皆一つの体となるために洗礼を受けたのです>とあり、さらに13節以下には<体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っている>として、耳が「私は目でないから体の一部ではない」と言えるのか、「もし体全体が目だったらどこで聞くのか」、「においはどこでかぐのか」など、体全体と部分部分の関係を語っています。
 つまり体とは、全能の父なる神とイエス・キリストと聖霊において1つである神ご自身のことです。ただ多くの部分とは、教会の構成員の良い働きではありません。もちろん私たちは、さまざまな個性や能力、弱さや欲望、感情や意志などを持ち合わせていますが、この私たちを、神は命を与え、愛し、そればかりかイエス・キリストにおいて私たちのために死んで罪を裁き、よみがえってくださって、さまざまなものを持ち合わせたままに、聖霊によって新しい人間に造り変えてくださって、体の部分と成り、神の業に与る者とされるのです。
②<多くの部分が1つの体である>
 4節以下で<賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべてのことをなさるのは同じ神です>と語り、<同じ霊です><同じ主です><同じ神です>とくりかえしているように、多くの部分としての賜物は、聖霊・主・神から与えられているものだと語っています。
 また<与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば奉仕に専念しなさい>(ローマ12:6以下)と賜物を恵みとして語っています。
 ただ②が①と同じでないことに注意したいと思います。つまり多くの賜物がありますが、それは決して人間が最初から持っているものではなくて、皆1つの体である聖霊によるものであるということです。
 それでパウロはⅠコリント12:7で<一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです>と語るのです。あるいはローマ12:3以下で<私に与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えて下さった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです>と戒めています。
 つまり、多くの賜物が1つの体であるのは、体全体に寄与するためであって、自分の賜物を自分にふさわしいものを超えないように慎み深くあることが求められているのです。
③<キリストは体であり、部分である>
 教会は父・子・聖霊なる神の業によって起こされた多くの部分から成っていること、また多くの賜物を与えられた教会の構成員が、聖霊によって1つにされていることをわきまえなさいと見てきました。そこで3つ目の<キリストが体であり、部分である>ことについて、もう一度12章12節を見てみたいと思います。
◎パウロは目に見える教会について、ローマ書、コリント書、コロサイ書、エフェソ書などで「からだ」という比喩を用いて数多く語っています。そのために先ほどの12節も<体が一つであっても肢体は多くあり、また、体のすべての肢体が多くあっても、体は一つであるように>と読むと、当然、「教会の場合も同様である」と続けて語ると予想するのではないでしょうか。ところがパウロはそのようには言わずに、<キリストの場合も同様である>つまり教会とは言わずにキリストと語っています。
 これについてローマ12章4~5節ではもっとはっきりと語っています。<私たちの1つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて1つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです>。
◎教会をまず一般の体つまり私たちの体と同じに見るのではなくて、まずキリストが「からだ」と呼ばれるべきなのです。確かにパウロはⅠコリント12:4~31節で、キリスト者たちが、神から与えられたさまざまな賜物をもって、教会における働きを、目や耳や鼻など体の機能の言葉を用いて述べています。しかし、それは「体」が教会について語るのに良い比喩だから述べているのではなくて、イエス・キリストご自身が「体」だから述べているのです。
 かつてパウロは熱心なパリサイ人としてキリスト者たちを迫害していました。ところが彼がダマスコに行く途中、天から光が照って、<サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか>という声が聞こえました。<主よ、あなたはどなたですか>と言うと、<あなたが苦しめているイエスである>。つまりパウロは、自分は教会を苦しめていると思っていたのにキリストを苦しめていることに気づかされたのです。ここに、イエス・キリストご自身が体であるというパウロの認識の根拠があると思うのです。
◎そして27節でパウロは、<あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です>と語った後、<神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、……>と次々と賜物が与えられている現実を紹介しています。そして最後に<もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます>と言って、愛の賜物を述べている13章になります。
 その賜物とはまさにこれまで礼拝で見てきた聖霊の実です。ですからキリストの霊である聖霊の働きから見ると、キリストの体が教会であり、その肢々である教会員もまたキリストの体であるのです。
◎したがって、教会が「からだ」であるのは、教会が有機的組織を持っていて、有機的組織を想起させ、有機的組織と比較するのが適当だから、教会は「からだ」と呼ぶことのできるというのではないのです。
 教会は、一つの社会的形成物ではなくて、実際にイエス・キリストに基づいて建てられ、存在しており、イエス・キリストに基づいて彼のからだとして生きた現実存在なのです。だからイエス・キリストは、その教会を迫害するサウルに対して、「なぜわたしを迫害するのか」と問うたのです。私たちは皆、キリストの体であり、聖霊の賜物を与えられてこの体の部分となっていることを感謝したいと思います。

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