2023年8月20日 聖書:エフェソの信徒への手紙5章16~17節「慰めと喜びに生きる」川本良明牧師

◎礼拝で度々取り上げてきた使徒信条は、本来洗礼の際に告白する<主イエス・キリスト>の3文字だけでしたが、次第に言葉が増えていき、2世紀半ばにはローマ信条となり、これをもとにして2世紀後半には今の使徒信条ができました。
 それは中心が<主イエス・キリスト>であることは変わりませんが、増えていく教会やキリスト者たちの存在の歴史的な意義を、主イエス・キリストとの関係から考えざるをえなくなったからです。
◎こうして第1項として父なる神、第3項として聖霊なる神が加えられました。それはどちらも短いですが、主イエス・キリストは、中央の第2項に置かれて、救い主として大幅に書き加えられました。それは、「誕生から墓に納められるまでの苦難の生涯」と、「復活し昇天し神の右に即かれたこと」と、「そこから再び来て裁きを行うこと」が述べられています。
 じつはこれには省かれていますが、復活したイエスが40日間弟子たちと過ごし、自分は昇天していなくなるが父なる神が聖霊を送ってくるのでそれを待ちなさいと言って昇天し、それから10日後に聖霊が降ったという歴史的な事実があり、それは使徒言行録の1章3~4節と2章1~4節が伝えています。
 しかし聖霊が降ったと言っても、雷が避雷針や大木に落ちるような具合ではなく、聖霊が降るとのイエスの約束を待っていた一人一人の内に降ったのであり、こうして教会が誕生しました。聖霊なる神を語る第3項で、教会とキリスト者のことが述べられているのはそのためです。
◎このように父なる神を語る第1項や聖霊なる神を語る第3項が加えられたとしても、<主イエス・キリスト>が中心であることに変わりはありません。この方は、十字架に殺されましたが、天地の造り主である神は、彼を復活させました。それはイエスが私たちの救いのためのわざを完全になしとげたことを世界に向かって宣言するためでした。つまり、御子の十字架の苦難によって、私たちは皆、一人の例外もなく、罪を贖われたのです。贖われた私たちは、どんなことがあろうとも神から罪を赦されており、そのことを疑うことこそ神を悲しませることなのです。
 しかもそればかりか、罪を問われない私たちは、神から神の子と見られ扱われる者とされました。罪を赦された私たちは、永遠の命にあずかり、神の国に生きる者とされたのです。その救いのわざは完全に行なわれたし、二度と繰り返す必要のない神のわざでした。だからイエスが十字架に死に、復活した後は、ただちに古い世界は終わり、新しい永遠の神の国が始まってもよかったのです。
◎ところが終わりは来ませんでした。それどころか復活後の40日間、イエスは弟子たちに現われました。そして昇天して神の右に即いた後、聖霊として降ったイエスは、地上で今も活動を続けておられます。だから初代教会は、主イエス・キリストは今、神の右にかしらとしておられ、その体として教会を建てて、終わりの日に向かって働いておられることを、使徒信条で告白しているのです。
 つまり第2項を見ると、「主は聖霊によりてやどり、……天にのぼり」までを完了形で書き、「全能の父なる神の右に坐したまえり」を現在形で書き、「かしこより来たりて」を未来形で書いているわけです。
◎教会は、全能の神の右に即いているキリストをかしらとして仰ぎながら「主の誕生から昇天まで」の過去を想い起こし、「かしこより来られる」将来を待ちながら活動しています。この過去と将来の間にある現在を、教会は「中間の時」と呼び、自分がどこからきてどこに向かっているかをはっきりと自覚しているわけです。
 これは聖書を読むことにも関係してきます。つまり教会は、神がアブラハムを選んでユダヤ民族を興し、この民族の子孫の一人として神は来られ、私たち人間の罪を滅ぼし、救いを完成すると約束されたということ、そしてその約束がイエス・キリストの誕生と死と復活と聖霊降臨という出来事を通して果たされ、今や救いの完成に向かって神が働いている、と信じてきました。
◎かつて熱心なパリサイ人として教会を迫害していたパウロは、復活のイエスに出会って、教会が地上におけるイエスの体であることを示され、神がキリストを通して救いの完成に向かって働いていることを知ったとき、その人生は一変しました。そのことは福音宣教に対する彼のすさまじいまでの姿によく表れています。
 先ほどお読みしたエフェソの手紙の中で、<時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです>と語っている言葉から、パウロが今が中間の時であり、歴史は終わりの日の完成という目標に向かっていることを自覚していたことが分かります。同じことをもっと迫った形で語っているのは、<あなたがたは今はどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう>という言葉です(ローマ13:11~12)。単に中間の時にいるのではなくて、教会を通して、目標に向かって、積極的に働いておられる神を見すえて語っているのです。
◎かつて平安時代の後半、政治を省みない貴族政権のために武士が現れて、世の中は殺伐とした時代がやって来て、衰えゆく貴族社会の上には後ろ向きであきらめの陰がおおっていました。ところがその中にあって武士の棟梁であった源頼朝は、自分の日記の中で「天下草創」と書いています。「俺が歴史を造るのだ」という自覚をもって生き生きとした人生を送ったのでした。
 このように、歴史的な自覚をもつことが、私たちに喜びと希望を与える徴であることを考えると、中間の時にあって、終わりの日の救いの完成という目標に向かっていることを自覚することは、じつに教会にとっての強さであると思います。しかし、同時に教会は弱さを持っています。なぜなら教会は、見えるものによって歩むのではなくて、信仰によって歩むことで満足しなければならないからです。
 たとえて言えば、私たちは船長であり船乗りです。しかし教会という船も船主も主イエス・キリストです。この方はすでに来たお方であり、やがて来られるお方であります。またこの方は教会の信仰の創始者であり完成者でもあります。しかしこれらすべてにおいて隠された姿でおられます。
 船は、そのようなイエスをのせて、強さと同時に弱さをもって、目標に向かっていくのです。しかしそれは深刻な切羽詰まった顔をして進んでいくのではなくて、いつも慰めが与えられ、喜びで満たされながら進んでゆくということを私たちは既に経験しているのではないでしょうか。
◎ところで神は、何のために中間の時をもうけたのでしょうか。それは、イエス・キリストに救われた人間に場所と時間を与えて、神のわざの収穫に参加させるためなのです。つまり神は、私たち抜きで先に進もうとはされません。私たちが義務や強制でなくて、自発的に、神のわざにあずかることを願っておられるからです。つまり神は、私たちの感謝と讃美の声を聞くことなしに、終わりの日の完成をもたらすことをされないのです。
 神がイエス・キリストというかしらの体である教会を地上に建てているのは、御子がその十字架の死で成し遂げられたことを、開かれた目と耳と心で受けとめ、悔い改めて、喜び告白する人を求めているからです。それほどまでに神は、真剣に御子との絆を結ぶ人間を求めています。今、エフェソの手紙でパウロが、<無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい>と勧めている「主の御心」とはこういうことなのではないかと思います。
◎更に考えさせられるのは、使徒信条で主イエス・キリストを第2項として中央に置いていることです。私たちの救いのために身代わりとなって罪を裁かれた方が、神のようなもの、つまり現人神とする天皇や宗教的聖者あるいは神のように優れていると思われる人ではなくて、神ご自身でなければならなかったからです。
 つまり神ご自身以外では助けることができないほどに私たちの危険が大きかったからです。またそれほどまでに神の愛が大きかったからなのです。しかし私たちは、自分の危険がどんなに深いものであるか、また神の愛がどれほどに溢れたものであるかを知っているでしょうか。しかしそんな私たちにもかかわらず、神がこのことをして下さったことに感謝したいと思います。なぜなら、大変な出来事が終わりの日の完成において約束されているからです。
 最近私は8月の盆について、13日に亡くなった先祖をお迎えし、14日に先祖を囲んで楽しんだ後、15日に見送るということを教えられました。ところが先祖には体がない、霊魂だけであって肉体がないことが大前提にあります。私は霊魂の存在は否定しないのですが、何か空しさを感じさせられたわけです。
 とは言っても、じゃ私たちは終わりの日に対して、本当の喜びや希望をもっているだろうかと思うのです。なぜなら終わりの日の完成とは、魂と肉体を合わせ持つ体として復活させられることだからです。しかも今私たちは、そういう希望を与えられているのです。終わりの日の完成を共に信じ、そのような希望を抱いて、神に心から感謝したいと思います。

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